コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

10月29日(土) 風に吹かれて  -音楽 - 音楽-

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 日ハムが四連勝で日本一を決めたこの日、改めて祐旭の13歳を祝う。先週は焼肉、一昨日当日には仮ケーキ、本日は寿司とホールの本ケーキと振る舞いが続く。
 程無く祐旭は父の身長を、御相伴に預かる公資は流石に父の体重を、と言えば後者は誇張が過ぎようが、二人とも立派に増殖したものである。誕生日毎に父がビデオカメラ越しに求める"抱負"には、いい加減飽きがきたか少しも新奇性は無かったが。

h729.jpg  「傲慢なところが彼らしい」等と妙な評価があったボブ・ディラン氏も大人しくノーベル賞を受章するらしい。
 十年ぐらい上の世代であれば全く異なる感慨もあろうが、私が洋楽を嗜み始めたころ既にディラン氏は歴史上の人物に近く、かの「We are the World」における氏の浪曲の様な唸りを物真似の持ちネタにしていた時期もあるが、即ちそれは1985年の段階で様式化された古典、些か悪意を以て述べればパロディと紙一重の領域に到達していた証しでもあろう。
 起伏の無い旋律だからこそ著しいディフォルメが可能であり、それがディラン氏の個性であるのは疑い無いが、逆に言えばメロディよりも寧ろ歌詞の中身、主張の重視と同意に他ならない。
 元より旋律あってこその音楽との立場からは「詞に拘るなら詩吟に勤しめ」と豪語した友人程極端では無いものの、飽く迄歌詞は旋律を彩る添加物のひとつを超えるものではない。
 従ってディラン氏の「文学」賞受章には、文学者の怨嗟の声が巻き起こるのは当然としても、同時に氏の楽曲は歌詞にこそ価値があり旋律こそが付随物たる御墨付きを与えたという意味で、多くの叙情フォーク作者をも貶めていると、諧謔的ではあるが咀嚼出来よう。













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 個人的にその解釈には決して肯じ得ない訳では無いのだが、選考サイドに文学を音楽より上位とする無自覚な優位性があるとするならば、ダイナマイトを発明した償いとして遺産を提供したという逸話は、幼き頃にノーベル氏の伝記を読んで以来些か美談過ぎる感は未だ否めないものの、ノーベル賞自体の権威すら貶めかねない危険性を有している。
 日本人受賞者が稀少であるのはベースとなる言語の相違たるハンディからして致し方なかろうが、二人目の受章者からして言わば一時代を体現し終えた"左翼"のイコンとして博物館へと展示された色合いが濃いとするならば、ディラン氏もまたノスタルジーの中に祭り上げられたと捉えるべきなのかも知れない。
 片隅で聞いている位が良い案配なのではないか。

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