コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

8月7日(日) ゴジラと息子  -映画 - シン・ゴジラ-

h632.jpg  特撮に目覚めたのは70年代末のウルトラ・シリーズの早朝再放送からなので、娯楽作品と化した後の初期ゴジラにも間に合っていないし、復活後は既に怪獣から離れる時期だった。
 従って後のハリウッド版を含めて関心は薄く、今般も祐旭が所望しなければわざわざ映画館に足を運ぶには至らなかったろうが、折角ならばとTOHOシネマズ新宿に赴いてまず歌舞伎町の変容に面喰らうところから始まった。
 500円を積みましてIMAXを選択したものの前日の予約で既に空いているのは最前列のみと人気の高さに直面してなお、この時点では特段の期待は抱いてなかったのである。
 しかしながらその目算は大いに裏切られる。
h633.jpg  第一作がゴジラの襲撃を未だ記憶に鮮明な大東亜戦争の東京大空襲に準えていることはつとに指摘されいる通りであり、同様に今作の前半が東日本大震災における津波災害を念頭に置いていることは容易に連想されよう。
 ただ震災被害と原発の事故が等閑視されている現実に鑑みれば、次いでゴジラが暴走した原子力の象徴として扱われるであろう展開が安直に浮かぶところ、事態は必ずしもそれを主眼として進まない。勿論、ゴジラを抹殺することは叶わずその動作を停止させるに留まる結末は原発に対する警鐘をも意味していようが、恐らくは初代が直前の第五福竜丸による被爆の象徴であったことを所余の前提として、敢えて原子力のメタファたるを説明過剰にせず過度の思想性を背景としない描写を選択したのではなかったか。
 だからこそ物語の本筋は寧ろ集団的自衛権の発動を巡る攻防になるが、そこには絶対的平和主義の観念論は跋扈せず、政府を戯画的に描いてもそれは民主主義の些か過大なコストの象徴として、幾分のユーモアを漂わせている。
h634.jpg  更に言えば、大空襲と福竜丸という人災をゴジラたる天災を以て代替した初代に、宇宙戦艦ヤマトほどにあからさまではなくとも仮想敵国の意図的なすり替え願望が託されていたのに対し、今般は震災という文字通りの天災の立地をそのまま首都に置き換えるのみで仮想敵国に触れない替わりに、日米同盟に集団安保と集団的自衛権の異同を仮託させることで、現実の仮想敵国が透けて見える構図になっている。
 元より時おり挿入されるわが国の経済危機への懸念が、多様な意思の忖度という民主主義コストの一態様に留まらず、例えば金融市場で濡れ手に粟を企む亜細亜系マフィアの跳梁にでも絡めていればよりストレートに企画意図を明示出来たのかも知れないが、そこはわが国がアプリオリに讚美してきた国連=安保理を敵役に配する構図を以て一定の解釈が類推されよう。
 元よりその分、日系人を米国代表に仕立てることにより性善説に基づいて同盟国を讚美し過ぎたきらいは否めないが、少なくとも昭和29年に直面した現実を現代に移植する、即ちゴジラが再生しなければならなかった意義は充分語られていよう。
 銀河英雄伝説が民主主義の基礎テキストであるならば、こちらは現下のわが国のそれを体現する秀作ではないか。

 一日遅れで妻の誕生日を祝い、ゴジラの公開が3月でなく8月であることに改めて気付く。

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