コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

6月29日(月) 保守と文化  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

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 いやしくもマスメディアは不偏不党であるべしとの不文律はわが国に固有の文化なのだろうか。勿論、経営母体の明確な「機関誌」に対し全国紙・キー局には一定の中立性は求められようが、「社説」の存在を証拠物件として掲げる迄も無く、社としての主張に何等かの志向性は必ず伺える。嘗て巨人軍時代のレジー・スミス選手が米大統領選における共和党候補への支持を滔々と語りだしスポーツ記者を面喰らわせたと聴くが、思想信条を明確にしない大前提がメディアに限らずわが国の国民性なのかも知れない。
 ただマスの冠を戴くからには広く人口に膾炙する必要性があり、還元すれば発行部数・視聴率を求めなければならない。この観点においてメディアもまた消費者の選考に合致する商品力が必要となり、結果的に国民性に見合う紙面作り、即ち反権・反政府が導き出されるとも言えよう。
 一方で営利事業としてのマスメディアのもうひとつの食い扶持は広告収入だが、メディアの側も出稿元たる企業サイドも所帯が大きくなればなるほど記者と営業、広報と宣伝には垣根を設け、出稿は純粋に購買層と部数・視聴率から機械的に算出される広告効果に基づく取引が構成される。
 詰まり恰も企業側もメディアの不偏不党の標榜を受け入れる、互いに大人の関係を築き続けてきたのは矢張り実にわが国らしい絵柄だろう。
 今般「分厚い保守」という一見しただけでは嗜好の判然としない非主流若手連合に相対し、歴史と伝統を想起させる「文化芸術」を掲げ安倍親衛隊を自ら謳う様な新集団が結果的に贔屓の引き倒しに至ったのは、詰まるところこうしたわが国の古式ゆかしい建前を逸脱したところに主因が求められるのではないか。
 広告で圧力との発想は新しいものではなく、メディアへの牽制として政府・与党から折に触れそうした言質が発せられたケースは過去にも散見されるが、敢えて言えば党本部のしかも最も記者に筒抜けの八階会議室で集団心理の発露宜しく快気炎を挙げたところに特異性があったと言えよう。
 大手六紙の主張が綺麗に三紙ずつに二分されつつある様に、メディアもまた不偏不党という伝統を革新していく中で、政府・与党も建前文化に別れを告げるという、恰も変わらない為に変わらなければならないという保守の真髄を体現した、訳では恐らくなかるまい。

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