コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

11月21日(金) 万歳の向こう側  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

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2010年の渡辺氏パーティ
 衆院解散に先立ちみんなの党が解党した。渡辺元代表の孤独な自民離党を実質的な端緒とする六年の歩みを振り替えれば、2009年選挙では自民批判票の一定の受け皿たり得ながら結党間もない準備不足の中、あたら二つもの比例議席を名簿搭載者不足で放出を余儀無くされたが、翌10年参院選では10議席を獲得して一躍第三極の騎手にのしあがったのである。
 ただ六年間を総浚いしてひと言で締め括れば選挙運に恵まれなかったとも言える。即ち2009年からして民主党ブームに霞んだ感は否めないし、第三極が注目された2012年総選挙では主役の座を日本維新の党に奪われたばかりか、婚約間近と目された両党の破談による候補者調整の失敗から共倒れに陥ったケースも少なくなかったのである。
 そもそも最大の「アジェンダ」たる行政改革は渡辺氏の長年のお株とはいえ既に小泉内閣の旧聞に属すると世間では受け止められたであろうし、先駆的であった金融緩和の主張はアベノミクスにその果実を奪われた形になっている。しかもこうした主張がみんなの党の代名詞として定着する前になまじ第三極の雄たり得てウイングが拡がったが為に、保守の補完勢力を目指した渡辺氏と中道野党再編に軸を置く江田氏との路線闘争に埋没したのは、嘗ての新自由クラブにおける西岡・河野の対立の再現に他ならなかった。
 30数余年を経て新自ク・みんなが共に神奈川をその根拠地としたのは偶発的ではなく、都心通勤層を基調とする都市型住民の浮遊的な政治思想に依居する要素は少なくなかったろう。そしてそのマイルドな反権志向は西岡氏の長崎同様に渡辺氏の地元栃木では受容されず、自由民主党に反発しながら恰も「自民党基盤政党論」を掲げざるを得なかった背反に、渡辺氏の悲劇があったのではなかろうか。
 前回選挙の反省を踏まえるならば戦術的には野党候補の一本化を図らなければ壊滅的な打撃は火を見るより明らかであり、そしてその野党再編の主導権を握るには既に政党の体を為してなかったからこそ五月雨式の解党という、独力で選挙戦に臨める一部幹部には合理的であっても大半の所属議員にとっては大海に投げ出される様な最悪の選択に収斂されたのだろう。
 既に新自由クラブにおいて国会に議席を得、今も現職にあるのは甘利経済再生相ひとりになり、永田町でその名前が口端に上ることも少なくなった。みんなの党も死してその名の通り「Your Party」として歴史に刻印を残すことは恐らくは能わなかろう。

 伊吹議長が万歳のタイミングを指導する小波乱の本会議だったが、通例は「解散する」の直後に万歳に突入していた記憶があり、事実「御名御璽」まで待つどころかその読み上げすら行っていないケースの方が多かった模様である。
 確かに解散は陛下の国事行為であるから詔書は全文頒布すべきには違いない。流石御所を抱える京都一区と讃える程の大事ではなかろうが。

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