コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

1月15日(水) 鏡の中で笑ってみたら

 面着という言葉は特定の企業内用語なのかも知れないが、「face-to-face」の訳と言ってよい。勿論、携帯電話やメールの行き渡った昨今ではfaxすら過去の遺物と化しつつあるし、Facebookでお仕事の連絡が舞い降りるケースも少なくない。
 当然効率性を重視すればかく文明の利器に頼らざるを得ないし、現実に幾ら「面着」の意義を熟知していても、須く毎度顔を付き合わせなければ意志疎通に支障を生ずる様では体が幾つあっても事足らない。
 確かに電話では表情が見えないから微妙なニュアンスが伝わり難いのは事実だし、学生の様な無駄話含みの長電話でも無ければどうしても言葉足らずに陥りかねない。ただ一方で、メールなら記録として残る上にたとえ足らず米が生じても簡便に補えるし、双方向性の微妙なタイムラグのおかげで却って冷静に語り合える側面も有する。それでも必ず反応があるとは限らないから、「便りの無いのは良い便り」であろうと類推は出来ても、了解が快いものなのか或いは渋々なのかは結局対面して言葉を交わして初めて理解し合えることもある、と言って仕舞えば堂々巡りだろう。
 実際、そこはかとなき隙間風を感じた時には、余程ウマが合わない同士でもない限り人の親密度は接触の多寡に比例するから「面着」の効用は否定出来ないものの、だからと言って無理に面会時間を作って対談に及べば互いに身構えて徒らにガチンコ度数を高め、裏目に出ないとも限らない。
 詰まるところ然り気無く同じ時間を共有し、「叩いている様でさすっている」故金丸信元副総理ばりの核心に触れない様で問わず語りに解り合える局面が生ずれば美しいが、偶然を装い帰り道で待つ「まちぶせ」方式を誘導してみても毎度それではストーカーでもあるまいし不自然だろう。事前に予定の立たない弔事が弔問外交として持て囃されるのは、不謹慎には違いないがこうした効能をも斟酌したものかも知れない。
 例えばアポを取らずふらっと訪れての懇談も、偶然の産物的要素を踏まえながら一期一会の御縁も感じられて、寧ろ積極的に構築すべきなのだろう。翻れば幾ら多忙であっても接客業として突然の来客にも可能な限り応対すべきという自らへの戒めでもあろうか。

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