コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

12月2日(月) さよならの向こう側

g510.jpg 丁度二ヶ月程前、出張に託つけて大阪ひとり旅と洒落込んだのは、都市変遷評論家としての消え行く交通科学博物館探訪が本旨ではなく、友人の見舞いがその主題であった。
 大学時代のサークルは所謂インカレだったが、関西を本拠とする氏とはそれ程昵懇の間柄だった訳ではない。それでも応時両親が海外駐在していた為、一軒屋にひとり住まいだった氏の邸宅は同僚の溜まり場と化しており、私がただ一度宿泊に及んだのもまだ学生時分だったか、或いは卒業後だったかも記憶が薄れつつあるが、寧ろ同世代OBの取りまとめ役として社会人となってから交遊が深まったと言ってよい。
 一極集中の煽りとも看做せようが、大学まで関西オリジンだった多くのメンバーも仕事は東京ベースであり、彼等旧関西勢の会合にかく事態に限って俄かに愛知県に所縁のある者を装う私にお声掛け戴いていたのも、リーダーたるポジションとは位相を別にしても常に欠くべからざる人物だった氏との縁になっていたろう。
 事実卒業十周年を記念した催しに際しても氏はオプションのゴルフも含めて自身の出席のみならず関西勢への集客にも精力的だったが、それから程無く脳腫瘍という難病に侵されてなお二十周年の集まりにも姿を現して呉れたのはつい昨年のことである。愈々危機的状況と聞かされ、物理的にもまた交遊の密度からしても幾分の距離感ある私が見舞いに赴くべきかは判断に迷うところだったが、寧ろけじめとして残る者の気を楽にして呉れたと言うのが正直な述懐だったろう。
 そして氏は今日、力尽きた。発病から約十年、企業人として生き続けられたのは結果から見れば奇跡に近かったらしい。

 阪神・淡路大震災後の黄金週間に、六甲の山荘で行われた氏の送別会に闖入したことがある。既に本人は室蘭へと旅立っており留まることを知らぬ酒量と吐瀉物の中、主なき宴が繰り広げられていたのもまた氏の愛すべきキャラクター故であったろう。山を降りてから地震で全快しながら不幸中の幸いにして不在の為人身に被害は及ばなかった、嘗て皆の溜まり場であった邸宅跡地を訊ね、帰路は行き掛けの駄賃宜しく住宅展示場と化した大阪球場のグラウンドに足を踏み入れたことを覚えている。
 邸宅は再び建て直されたと聞くが、大阪球場も既に亡い。

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