コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

11月16日(土) 雷と露西亜人  -育児 - パパ育児日記。-

g490.jpg  既に記憶が曖昧になっているが、自身の小学生時代、恐らく五年時の学芸会で当初主役級の「村長」に抜擢されながら、演奏者不足でBGMのエレクトーンに転向を余儀無くされた顛末は未だに印象深い。結果として他のクラスは二人で演奏したエレクトーンを単身務めたのだから、幕毎にクラス単位でのリレー形式だったのか、或いは各クラスが同じ演目で競い合ったのかは最早定かではないが、少なくとも学年全員が一同に会しての舞台では無かったことになる。
 現に本日の学芸会も五・六年はひとり二役ならぬひと役複数だったが、矢鱈と旨い主役が次のシーンでは急に素人臭くなっていたり、端役になると微妙に衣裳の統一感に欠け同一キャラクターなのか判然としなかったりと弊害も認められたものの、星新一風のSF作りだった五年生は新奇性に富んでいたと評価出来よう。
g491.jpg  しかし二年に一回、展覧会との持ち回り故か、二年次毎に明確に色分けされており、一・二年は基本的に主役・端役の別の無い群衆劇である。それでも二年生は個人技を活かすアレンジもあったが、一年となると台詞を明瞭に唱えるだけで目一杯との観念も働こう、公資も六人ひと組の雷様として一翼を担うに留まっており、折角早出して前方桟敷席に居を構えた割には数少ない登場シーンにビデオとカメラの二重方列で、動きのある絵柄を納め切れない始末だった。
 一方、三・四年は両者の中間で、数名の主役級以外はその他大勢扱いで格差が明白になっている。祐旭は自らピアノ伴奏に名乗りを上げ、残念ながらメイン奏者の座はオーディションにて同僚に敗退したものの連弾のメロディに任じられ、併せて何故か黒ずくめの露西亜人として現れ、丸で黒子の如しと眺めていたら実際に幕間では大道具として書割を運ぶ奮闘振りであった。
g492.jpg  ただ基本は群衆劇であり、その他大勢ではあっても満遍なく出番を作る民主主義的な配慮に満ち溢れているから作劇としては相当に無理が生ずるし、常に全員が揃わないと練習もままならないから拘束時間も馬鹿にならない。
 六年は下手に消えた主役がすぐさま上手から登場したりと複数配役制を旨く活かしていたが、いっそクラス毎の短編オムニバス形式にして複数配役を更に敷衍するのも、空時間に効率的な鍛練が進みそうだし新たな方策ではなかろうか。
 次回は二年後、三年で迎える公資には主役級の性格俳優狙いを薦めたいが、六年になる祐旭に是非オムニバス案の提起を囁きたい。演劇に生きる訳でもなかろうし、そもそも受験前で学芸会どころではないのかも知れないが。

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