
要は主役が同じ顔触れという御縁だが、演劇的な微妙なボタンの掛け違いが織り成す展開に恋愛も絡ませた構造が巧みである。
この種作品はプロット勝負で俳優を完全に駒として扱う小津映画や映画的なシーンの美しさとは対極にあり、ロケやセットに経費が掛からない替わりに配役が全てと言っても過言ではない。従って「フェイス・オフ」ではないがひとり二役が如くに演じ分ける香川照之氏は、矢張り旨い役者なのだろう。
勿論、ともすれば単に荒唐無稽な夢物語に陥りかねない、現実にはあり得ないシチュエーションに視聴者を感情移入させるためには、個々の場面においては必然性なり不可避性を自然に受けとめられるべく演出の妙は必須であろう。鈴木清順氏ばりは大袈裟であっても、寡作で知られる内田けんじ監督には前作にあたる「アフタースクール」程ではなくとも、落ちまで全て把握した上でもう一度見返してみても筋が通る様に細部の整合性を図らなければならないし、そもそも演劇同様に事実上、俳優をアサインしての宛書きに近いだろうから監督・脚本家の腕の魅せ所には違いない。
日本映画の生きる道を改めて提示された感。
しかし堺雅人氏は出生作となった新撰組!の山南敬介以来、コミカルな言動も、逆に笑って人を切り捨てる様なシニカルな役柄も映える稀有な俳優として遂に大スターの座を手にしたのは、歴史と伝統ある早稲田演劇に培われた演技力は勿論の要素だとしても、常に微笑を携えた様な容貌に由来する部位も小さくはなかろう。
ギラギラとした出世欲の如きを感知させないのも当代向きなのかも知れないが、後天的な研鑽と運気を得てなお人は天賦の才の活用が鍵という例示か。