コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

7月2日(日)  艾がでかすぎれば火葬になる  -政治・経済 - 政治・地方自治・選挙-

h950.jpg  都議選最終日、秋葉原の遊説は総理登壇前から反安倍のシュプレヒコールが囂かった。反原発から集団的自衛権、テロ法へと繋がる一連の示意行動も、少なくとも識者の間では、職業左翼の生活の糧と若気の至りの捌け口としての御祭り騒ぎに過ぎぬと、寧ろ憐憫の情以上を斎すものでは無かったにも拘わらず、2006年の総裁選において麻生現副総理の「オタクの皆さん」発言以来、自由民主党の選挙戦術の一環に位置付けられてきた秋葉原という扇情的な舞台装置が却って、実際には少数でしかない勢力を恰も民意であるかの如くに際立たせて仕舞ったとも言える。
 元よりマスメディアの後押しが果たした役割は小さくないが、世相に受け入れ易い報道に傾斜する客商売としてのマスコミが挙って取り上げたのは、逆説的に民意の先行指標たる側面もまた否定出来まい。だからこそその場に居合わせてなお、雨模様の中に急速にスター達が輝きを喪失していく様な想いに囚われたのだろう。
 結論から言えばファーストのみならず共産や民進までもが批判票の受け皿たり得た誤算という意味では、確かに国政側の失策が左右したのも事実だろうが、後付けの論理であることを顧みず述べれば、 少なくとも昨年の知事選からの一年の間に、都知事と何等かの手打ちを果たすべきだったのではないか。
 現に敢えて日和見批判を招いても知事与党の選択を甘受した公明の勝利を観る限り、戦術としては負ける戦いには挑まないという現実路線が「失敗の本質」からの教訓であり、自由民主党が総力を挙げて挑めば逆風を反転せしめ得るとの希望的観測の下に本土決戦に突入したとすれば、少なからずその部分は驕りであったろう。
 如何な良政であろうとも長期に亘る権力には、たとえ非合理的な理屈であろうとも批判勢力が、日常的に声を挙げ難いからこそ余計に、僅かな契機を以て燎原の火の如くに立ち上るのは避け得ない通過儀礼である。
 是非は別として現代風の"透明性"に満たない要素が、それが石原都政の残照乃至は反対給付だったとしても、都議会に存在したのだとすれば必ずしも国政の被害者とばかり捉えるのは当事者意識に欠けており、政府としては御灸を据えられたのが国政選挙でなく、言わば都議選がバッファの役目を果たして呉れたと割り切る他は無かろう。
 勿論、寛容と忍耐の精神で地を低くする姿勢は必要たろうが、窮地であるからこそ「初心」である筈の憲法改正を貫く姿勢を持ち続けて欲しい。寧ろそこに党内の様々なエネルギーを凝結させる位の度量を示しても、長期政権の駆動力は持続するのでなかろうか。

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