コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

7月26日(日) カシアスの子供達  -育児 - パパ育児日記。-

h136.jpg  小学校の社会科において初めて行政区の概念が現れるのは三年生である。それが年を追う毎に都道府県、更にはわが国と敷衍していくのは今も昔も変わらないが、嘗ては若冠郊外の住宅地以上に語られることの無かった「私達の杉並」も今やアニメの聖堂と授業においてまで賛美されるとは時は流れたものである。
 その象徴たる杉並アニメーション・ミュージアムへの既往歴を問われて公資本は挙手しなかったと宣っていたが、それもその筈、五年前は未だ四歳とあらば記憶も欠落して然るべきだろう。
h135.jpg  そこで今般のプチ御出掛け二人行と相成ったが、結論から言えば公的施設の哀しさ、鎮座するオブジェは相変わらずのハクション大魔王であり、却って寂れた感を醸し出している。
 考えてみれば東京美術館にも飾られていた最新のデジタル彩色技術に顕著な様に、今やコミケの類の目玉商品だったセル画すら存在しない漫画映画において、売りのイベントが思い切りアナクロなクレイアニメの実体験とは些か時代がかってはいまいか。
 お題のガンバの大冒険はさておき父は粘土のウルトラマン製作に没頭したが、デジタル世代の公資には今ひとつピンと来なかった様である。

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左からチブル星人、ウルトラマン、
アイアンキング
 実は今月から新しいウルトラマン、Xの放映も始まっているが、CGも採り入れながらそれなりに特撮にも手が込んでいる点が存外に好事家には評価されているらしい。
 セブンの実子とされたゼロ以来、ウルトラマンは擬人化が進み、今般もまた変身する地球人とXという別人格が存在するが如く演出が為されている。
 その萌芽は「ウルトラマンになれ」と団次朗氏が煩悶する初期新マンにも見受けられるし、現実に映画「超ウルトラ8兄弟」をひとつのピークとして、黒部進氏、森次晃嗣氏といったウルトラ俳優達が引退期を迎えるのを見据えての代償措置でもあったろうが、些かジャンボーグAに乗り込んだ立花ナオキの如くあり、平たく言えばウルトラマンらしくない。
 既にわが子達にとっては過去のものとなったウルトラ・シリーズだが、タロウにおいて父に続き母を投入し「ウルトラの国」の概念を構築したファミリー路線とも異なる、ウルトラマンのロボット化が迷走円谷プロの辿り着いた結論であるとすれば若干寂しい。

7月24日(金) ランディ・バス  -政治・経済 - 環境・資源・エネルギー-

h132.jpg  インフラが大きな課題たる移動体への水素活用において、定時定航路の乗合バスは供給スタンドをひとつ設ければ万事解決するという意味で極めて理に叶っている。
 だからこそ東京都は2020年の五輪・パラリンピックにおいて、多数利用者が水素の効用を体感し得る街中の見本市的な観点をも踏まえ、かのマッカーサー道路の俗称を持つ環状二号線への導入を筆頭に大いに触手を伸ばしている。
 取り分け鬼太郎とともに墓場から甦った様な強運の持ち主である都知事が並々ならぬ関心を寄せているが、一方で確かにエネルギー源としての利用時は二酸化炭素を排出せずとも、生成過程をも勘案すればカーボンフリーではないとの、必ずしも水素に高く軍配を上げぬ思想が存在する光景を目の当たりにしたのは、水素自動車のパブリシティに努める職責にとって貴重な発見であったろう。
h133.jpg  勿論それは原発に依存し得ない現下の電気自動車にも同様の指摘が可能であるし、排出箇所が限られていれば吸着やら対症療法も試み得ると反論してみても、そもそもエネルギー・ミックスの中で水素ばかりが持て囃されることに懐疑的であるならばそれもまたひとつの論理であり、わが方も伝統的なガソリン、電気とのハイブリッド、電気そのもの、燃料電池の時と場合に応じての使い分けが主旨であるから解り合える日も訪れよう。
 肝心の実証実験中の試作バスは言われてみれば静かな様な、エンジン音が無い分却って車内の接触音に過敏になる様な気もしたが、基本は普通のバスである。バスガス爆発にならないよう、という不穏な冗談は寧ろ比重の軽い水素の危険性は小さいと声高に否定しておこう。
h134.jpg  しかし酷暑の中、回遊したバスを迎え次回御一行様を見送っては冷えた議会棟に退避するサイクルを繰り返していたら、極端な寒暖の差の為せる業か些か日射病改め熱中症チックになってきた。流石水素と酸素から電気と水だけでなく熱も生成するから、ではないと思うが。

 都市対抗野球が企業対抗でなく文字通りの「地域」対抗であるのは、補強選手の存在から制度的にも裏付けられているが、それを実感するのは政治関係者の関心の高さであろう。
 勿論、支持者たる企業と同一との含意なのかも知れないが、出身校への支援に限定されざるを得ない甲子園大会よりも幅も広い地域性を有し、それ故に国民代表であると同時に地域代表色の濃厚な政治とは親和性が高いのかも知れない。
 ということで愛社精神の前に永田町周辺居住者の職責として、一昨日は東京ドームを視察してみました。

7月20日(祝) 飛翔  -スポーツ - ゴルフ-

h131.jpg  人並みに著しく迷惑を及ぼすことなくラウンドに至る様になって以来、平均すれば百五前後と美しく言えば安定、有り体に述べれば伸び悩み続けている。
 にも拘わらず通常、ダボペースを基板に偶にパーやボギーを拾い、運が良ければ百を切るゴルフのところ、前後半とも9の大叩きがあってなおかつ二桁とは、好意的に解釈すれば飛躍への足掛かりとは言えまいか。
 実際、後半は9を除けばダボひとつ以外はパーがふたつ、残りはボギーと奇妙な迄の堅調振りである。しかもドライバーには未だ引っ掛け少なからず、第二打のウッドで着実に挽回するとは我ながら頼もしい。加えてウッド・アイアン7本ずつの世にも稀な構成が示すが如く、不得意の範疇にある100ヤード以内のアプローチが上がり過ぎずトップにも陥らず綺麗に放物線を描いているのには驚愕せざるを得まい。この上にミドルパットが美しく吸い込まれていくのだから好スコアも道理だろう。
 後半3番ショートでは180ヤードをナイスオンのパーで同伴戴いた達人からお褒めの言質を頂戴する始末である。
 事実上コースのみに簡略化した昨年は明らかに成績が陥落し、心入れ替えたとえひと箱でも練習場通いを再開した効能が着実に顕れているのだろうか。
 夢は時間を裏切らないでなく、練習は結果を裏切らない、と日記には書いておこう。

7月19日(日) 顔で笑って 腰で泣く  -育児 - パパ育児日記。-

h128.jpg  今日も試験へと赴く祐旭に隠れての公資との二人旅、余り遠出は憚られるので又もや駄菓子屋遊戯、但し少しだけ羽根を伸ばして今般は葛飾柴又である。
 児童期を含め帝都在住は延べ30年になるが下町にはとんと御縁が無く、駅頭に黄昏る車寅次郎氏と対面しても少しとして感慨は湧かないが、住宅地にいきなり現れる板橋のそれとは大いに異なりこちらは思い切り観光地仕様である。
 元より昨今流行りの「昭和」を演出する迄も無く商店街自体がレトロを絵に描いたが如く佇まいであり、そもそもブリキ玩具製作の家内制手工場群のメッカだからおもちゃ博物館が鎮座在していても何等の違和感が無い。加えて10円コインゲームを収集した板橋に対し、より在りし日の駄菓子屋を再現させた姿は杉並に幼少期を過ごし、ベーゴマやら銀玉鉄砲やらをいそいそ購入していた父にとっても親和性はあり、些か浴衣で練り歩く温泉宿風情ではあるものの、ゴルゴ13でもかくやと思われる重量たっぷりの景品ばかりの射的をはじめ戯れる。
h129.jpg  して有料の二階に昇ればこちらはおもちゃ博物館の名の元に、ボコーダーボイスを齊す嘗て見た近未来の模型図や古式ゆかしいゲームボーイ、郷愁を誘う漫画群やらが所狭しと居並ぶが、白眉はミニカーが溝に沿って走るスロットカーであろう。華やかりし時分のデパートにて必ずコーナーを廻り切れず脱輪した記憶が甦るが、独り占めした公資は周回毎にドライビング・テクニックを習得している様だった。

h130.jpg 名物の草団子は今ひとつだったが、帰路は古代の深海水を汲み上げた板橋のスパディオで途中下車。ぬるま湯は疲れが取れると草臥れたサラリーマンの如くに公資は湯船に身を委ねている。
 風呂上がりには腰に手を当て牛乳を煽ると踏み台昇降の成績が伸びるとのスイエンサーで得た知識を披歴しながら、自ら体現するかの如くに一気飲みし、当然踏み台には昇らず雲隠れから勉学モードに復帰した。
 お忍びはまた改めて。

7月16日(木) 外交とは形を変えた戦争の継続  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

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替わりに赴いた伊王島(長崎)
 戦争とは他の手段を以てする政治の延長であるとすれば、恰もキングギドラの首が身駆を宇宙へと連れ果てるが如くに、日露戦争時には機能していた外交力が軍事をコントロール出来なくなったのが戦前のわが国の蹉跌だったのだろう。それでも戦後間も無くにおいて幣原、吉田、芦田と外務省出身の総理が連なった様に軍事力を失ったからこそ再び檜舞台に躍り出ながら、結局軍事力の裏付けの無いハンデに経済外交の伸展とが相俟って、外交官は儀典イメージを色濃く装う存在と認識されている。
 元より相手国に対し自国の国益を主張すべきところ、取り分け経済基盤が確立されわが国からの経済支援策を必要としなくなった近隣亜細亜諸国に対しては、過度の贖罪意識の発露が恰も木乃伊取りが木乃伊と化すが如くと言えば失礼かも知れないが、相手国の立場を尊重する余りに事勿れ主義に陥っている嫌いは否めまい。
 今般の産業遺産認定にあたっても「徴用」の解釈における玉虫色の決着以前の問題として、会議当日に至ってなお事前の合意を覆す行為が国際社会に如何に受け止められたかは別として、わが国外交の弱腰もまた印象付けられたであろうことは国益を毀損しかねない段取り不足、或いは非積極性を露呈したと言えよう。
h117.jpg  翻ってみれば産業遺産として国際社会に是認されるという事実は明治期のわが国の歩みそのものの、歴史認識において他国からの評価を求めるべきかの是非は別として、肯定と受け止められよう。だからこそ過敏な反発を喚起したのだとしても、当然それは1910年代以降の遺産を否定するものでもない。
 ただ八年前に長崎を訪れた際、丁度出港直後で地団駄を踏んだ軍艦島は過剰に象徴的だとしても、遺産の顔触れを眺めれば殖産工業期が第一次産業と第二次産業の架け橋であったことは一目瞭然であろう。勿論幾つかの素材産業はより近代化された形で今も経済価値を持ち続けているが、多くの国策企業は英国の如くに緩やかに下り坂を踏み締めつつあり、だからこそ歴史と伝統の証しとして産業遺産たり得たのだろう。
 言わば山本昌投手に準えるのは極論としても谷繁監督兼選手擬きのポジションであって、産業としては遺産として床の間に飾られず現役バリバリであり続けるのが本旨なのかも知れない。

7月14日(火) 太陽は泣いている  -アニメ・コミック - 漫画の感想-

h125.jpg  某先生から「夏休みの課題図書に」とお題を戴いた漫画「太陽の黙示録」全26巻を読破する。
 東日本大震災を予言したとの触れ込みだが、かの小松左京氏の「日本沈没」を土台としているのは間違いないものの、「沈没」が文字通り大地震という災害における悲劇を描いているのに対し、沈没からの復興に主題を求めたのが現代風なのだろう。
 米中のパワーバランスの下に非武装という大義名分を以て対抗する様は、和田博雄、勝間田清一両氏以来の革新官僚の流れを引く元日本社会党委員長・石橋政嗣氏の歴史的著書「非武装中立」を想い起こさせ、現に自給自足の原始共産主義に収斂していくが、恰も人間の楯の如くに国民をメディアに曝して国際世論に訴えかける戦術は功利的で現実的な信用には足ろう。
 ただ三國志宜しく鼎立が成立しても、所詮常任理事国相互の対立により機能しない国連を、国際世論の仮想現実としての拠り所として仮託する国連中心主義の亜流に過ぎないという意味では、徒らにユートピアたる国連を崇め奉る訳では無くとも戦後わが国らしい国際社会性善設に則っていよう。
 そもそも「日本沈没」は大和民族を諸外国に移住させ将来の再興に望みを託す過程に主眼が置かれているが、同時にそこには出エジプトの如く法難の日々を味わうならば寧ろ華々しく散って後世、日本国民かくありきの歴史が語り継がれるべきという滅びの美学の思想も色濃く伺え、詰まるところ再生特区日本もまた再生を謳いつつ国際紛争にあたっては玉砕の誘惑に抗し切れないロマンチシズムに依居しているのでは無かろうか。
 翻って標題の「太陽」とは何かである。安直に連想されるのは「太陽を盗んだ男」であろう。即ち小型原発を擁して政府を脅迫し被曝により死に至る爆弾犯の物語である。作中、再生特区の経済的なカードとしてはレアメタルと魔法のバクテリア・フェニックスが示されているが前者には量的な、後者には質的な限界は否めない。全くの想像に過ぎないが構想段階では太陽とは原発であり、これを再生特区のエネルギー源とするとともに恰も北の国の如く原発の安全管理を楯に国際社会に合口を突き付ける筋書もあり得たのではないかとも夢想される。ただ何等かの理由で原発は主役の座を降り、それがまた逆説的に東日本大震災の予言たる解釈とも符号する。勿論、福島県は中国支配下のノースエリアの管内ではあるが、切り札たる原発をオミットしたからこそ非武装中立という前時代的な解決しか見出ださざれなかったと考えるのも課題図書への感想文らしいだろうか。
 幸い再生特区に登場する高円寺は沈没しなかった様で、武蔵野台地の有り難みを痛感したというのは余談である。

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 V9巨人のエースと言えば堀内恒夫現参院議員に他ならないが、ペナントレース・日本シリーズを通じて胴上げ投手に実に9度も輝いたのは左の高橋一三投手である。
 堀内氏すら一度切りの20勝に二度到達しながら活躍が隔年毎だったこと、75年の長島巨人最下位に瀕して張本獲得の為に日本ハムに放出されたことから印象が薄くなっているが、ひとつ年下の堀内氏が79年以降急速に衰えたのに対し、81年には14勝を挙げ日ハム優勝の立役者として復活している。
 余力を残しながらこれも堀内氏とともに83年限りで現役を退き王巨人に指導者としてカムバックしたが、日ハム球団が後の大島康徳氏の様に生え抜きでなくともフライヤーズ在籍よりは他球団から長く日ハム在籍したOB路線を目指した際には監督候補にも擬された。
 更に2004年の堀内内閣においては二軍監督に就任。文字通りの堀内一三政権が誕生したのは両氏の名前を勝手に戴いた私にとっても感慨ひとしおであった。
 御冥福を御祈りしたい。

7月12日(日) 佐賀の鍋  -スポーツ - 大相撲-

h118.jpg  スポークスマン大関だった貴ノ浪の音羽山親方の43歳での幾分艶やかな急逝は、持病に起因するとはいえ改めて力士リスクの高さを示す事例と言えよう。
 そもそも嘗ては中学生の内から、現代でも義務教育修了とともに入門し、取り分けアンコ型全盛のなか先ず内臓に負担を掛けて肥ることからという錬成過程は、実兄から飲めない日本酒を強要され肝機能障害で早世した元大関・貴乃花の例に待つまでも無く著しく不健康に他ならない。
h116.jpg  勿論、高度成長期を経て安定成長に入り、地方からの集団就職「金の卵」同様に職と食を求めて上京する力士予備軍が減少したのは、肉体リスクとともに相撲で芽が出なかった際にちゃんこ経営以外にも選択肢を拡げる為に、相撲という特技を活かして高学歴を求める合理的な行動であろう。
 リスクとともに果実を失った結果がモンゴル勢の席巻であったとしても、それはわが国の豊かさの証しに他ならない。従って幕下に続き三段目付けだし導入を模索する日本相撲協会の新機軸は的を射ていよう。
h123.jpg  名古屋場所初日に合わせた訳では無いのだが、猛暑のなか一昨日ちゃんこ料理にありつき大相撲の有り様に想いを馳せてみた。

 朝から忙しない公資に尋ねると、本日は妖怪ウォッチバスターズの発売日、わざわざ誕生日プレゼントの権利をひと月以上持ち越しての本日の邂逅とはこちらも合理的な行動である。
 近場に新装なって厨房が拡大された伊料理の改造デルソルで兄弟揃って興味津々。

7月10日(金) 参議を集める  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

h114.jpg  永遠に成案に至るまいと思われた参議院の合区が遂に一定の結論に至ったのは、放置すれば今度こそ選挙無効に及ぶかも知れぬ参院選まで一年、区割り確定後の周知期間を換算すればデッドラインぎりぎりの決着に他ならないが、廃藩置県以来の地方自治制度の根幹に影響を及ぼしかねないだけに幾ら〆切の効用とはいえ急転直下の展開には驚きを禁じ得なかった。
 加えて公明が民主と組み、逆に維新はじめ保守系、より正確に言えば元自民系の各党案に自民が乗った形での決着には、混迷を続ける平安法案の採決に向け賛否に影響を齊すべく高等戦術かと思いきや、肝心の自民党内が蜂の巣をつついた様な騒ぎになっているところを見ると段取り不足の感は否めまい。寧ろ公明党案の方が余程深謀遠慮に満ち溢れており、賛否票数が拮抗しているだけに余計に事態をややこしくしていよう。
 そもそも上院たる参議院に純粋に一票の価値を同等ならしめる必要は無く、米上院や独連邦参議院の様に権能を絞った上で地域代表色を強めるべきであり、徒らに一人区を増やして小選挙区制に近似させるのではまさにカーボン・コピーに陥りかねまい。勿論それは憲法14条並びに43条に抵触するとされるから憲法改正の要件たり得、今般の枠組みが恰も改憲を視野に入れたかに伺える二重三重の入れ子構造になっているが、緊急避難としての弥縫策にしては芸が粗かろう。与野党の捩れ現象故に逆説的にキャスティング・ボートを握った参院の鉄の結束が、新たな捩れに依って揺るがされる皮肉を産みつつあるとも言えようか。

 ノーメンクラトゥーラは能面の如しとの指摘もあったが、ヤクーニン社長も役人出身らしい。
 と思い付いてはみたものの、ローマ教皇を推戴するコンクラーヴェを根比べに準える様な捻りの無いストレートな駄洒落は、矢張り小泉元総理の如く絶妙な間を以て操らなければ、余り笑えない。

7月8日(水) きさらぎの出会い  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

h108.jpg  政治資金規正法8条の2に示された政治資金パーティは、勿論例外は存在するものの夜は講演会がアドオンされたとしても文字通りのパーティが主体であり、一方朝食・昼食会は勉強会の体裁が一般的でそれ故に自粛の内規のある政府役職者は朝昼に流れる傾向がある。
 本日も官房長官の講話だったが、公務の為中座を余儀無くされ下手から右手を挙げて振り返る姿はカーテンコールの如しだった。こうした事態においては主役当人が代役に早変わりするのが定番だろうが、用意周到と言うべきか入れ替わり立ち替わり登壇者が現れ、しかも如何にも取って付けた様な「ご挨拶」に留まらず、各々が前任者の話題を受けて持論を開陳する様はリレー小節が如くあり、それでも伝言ゲーム宜しく驚天動地の結末が導き出されないのは話術を生業とする技術の為せる業だろうか。〆は懐かしき珍念先生とは盛り沢山もここに極まれりで、少しお得な新しい趣向だった。
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 更にもうひとつ新橋の午餐会を梯子して四年連続となる「文化人・芸能人の多彩な美術展」に赴くが、今年は東京美術倶楽部と若干人里離れた会場のため静けさに満ちている。安倍総理から安倍総理までのマトリョーシカが頓知が効いていたが、残念ながらロシアのハゲ・フサ唯物論程の法則性は見出だせなかった。

 その足で三田に退院間際の知人を見舞いと我ながら導線の巧みさに感心しながら、夕刻大手町にとって返して経団連系のパーティに、参加者ながら恰も事務局の一員かの顔をして応接に務める。比較的小所帯のため永田町住民諸兄とも周辺居住者たる民間各位相互とも気楽な交遊会の風情である。
 雨中、忙中閑あり逢引きの様であり、貧乏暇なしの様でもあり。

7月7日(火) 藪の中

h122.jpg  嘗て読売新聞の務台光雄氏が「白紙でも売ってみせる」と豪語したエピソードは、同紙の販売網の強靭さを示すとともに、報道の中身という本丸よりも広告を含めた前線の過度の突出を揶揄する二つの側面から今も語り継がれている。
 単純な置換は避けなければならないが、政治においてその対比は俗に政策と政治という言葉を以て代表され、更に著しく単純化すれば政調と国対という二つの部局の対比に現れる。
 国家運営において政策の有り様の重要性は論を待たない。しかしながら幾ら有用な政策であっても声ある声に支持され具現化されなければ画餅に終わる。従って両者は密に手を携えなければならないが、前者は理想を追求し後者は現実の調和が優先されるから根本原理としては相容れない。
 嘗て私は永田町周辺居住者として、その政調の側に近似していたといって良い。ただ中央官庁との折衝を主務とする部局において、国対に当たる他の部局との狭間にあるそのポジションはよく言えば政調と国対の潤滑油と見做されようが、現実の永田町においてそのセクションが存在しないことからも判る様に、盲腸の如くに過ぎなかった。
 そして私は国対擬きへと配置変えになり、やがて政調と国対との合併後紆余曲折の後、結局国対サイドを基盤に何故か院内ではなく党本部に居を据えているに近い。敢えて再び比喩に隘路を求めれば、軽い発作を経て盲腸は除去されたのである。
 それでもなおふと時たま、あの盲腸は今もなお私の中に蠢いているのではないかとの郷愁に囚われることがある。盲腸で分解し切れなかった何かがまだ染み出しているのではないかという錯覚と言ってもよい。
 本来峻別の明快な政調と国対にこのたび業際が生じたのも逆説的にはその傍証かも知れないが、結論は「羅生門」状態のままに元の鞘、国対が預かることになったことに鑑みれば、盲腸は端から存在しなかったという歴史認識が改めて確立されたとも言える。
 自ら盲腸の真の告別を執り行うべきなのか、合口として突き付けられてなお、万年国対副委員長に答えはまだ見えない。
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