コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

12月31日(水) 四年経たずにまた会いましょう  -音楽 - J−POP-

g915.jpg  結末への評価はいざ知らず、無事税制にも別れを告げて湯沢に辿り着く。都市部在住の現代の児童らしからず他の運動競技における低迷とは一線を画してスキーヤーたる腕前を向上させていく子供達を余所に、年を追う毎に体力も関節の軟骨も磨耗していく父は喫茶室のフリードリンクを友に待機ポストの岩原の大晦日であった。

g916.jpg  年の瀬に去るひと歳を顧みるのが紅白歌合戦の趣旨である以上、一時の如く懐メロ色に溢れるよりは洋の東西も局の大小も問わず、今年の風物詩を網羅する方が余程健全には違いない。
 少なくとも再早プロダクションの力関係云々を論じる以前に実質二年連続五回目のEXILEに白旗を挙げる他無く、ビブラートとこぶしはイコールでは無かったとしても、加齢に伴う多少の声量の衰えこそあれ石川さゆり氏の歌唱力に、作曲者たる椎名林檎氏の演歌との親和性を改めて感じさせられたのが最大の魅せ場という 前日のレコード大賞に比べれば盛り沢山であったのは間違いない。 br>  勿論、児童層の視聴の見込まれる前半戦への二度に亘る妖怪ウォッチの投入はこの為に「おおみそかは全員参加」のキャッチコピーを誂えたと邪推されても致し方ないジバニャン頼みにだし、前座にMay J.氏を配してこちらも二段階方式を採り得たのは幸いだったとしても、肝心の松たか子氏を御目出度で欠いた「アナ雪」は松田・神田親子出演の話題性こそあれ、幾分の物足りなさは否めなかったろう。<
 それでも些か痛々しかろうと敢えて新曲を披露して現役感を装った中森明菜氏の"復帰"は祭りらしくあり、白塗りをした故・三波春夫の物真似が実質的に紅白追放を齋したサザン・オールスターズが、「東京五輪音頭」の再び唄われるこの年に「東京VICTORY」を以て復辟を果たしたのは平成27年の象徴に他ならない。

 今年も有り難ふ御座いました。

12月30日(火) アトムの子  -映画 - 邦画-

g913.jpg  そろそろ借りるべき板のネタの尽きてきたTSUTAYA ディスカスから二本のDVDがやって来る。確かに唐突に動くジュリーが見たくなり登録した記憶があるが、忘れた頃に繰り上げ当選宜しく配送され、ギリギリまで賀状のコメントを認めつつ賞味した「ハーイ、ロンドン」は古式ゆかしきアイドル映画の体裁を踏まえつつ、加橋かつみ脱退によりニューロックへの脱皮にもがくザ・タイガースの苦悩が垣間見れたと評するのは後代の入知恵が効き過ぎだろう。
 然してもう一本は「太陽を盗んだ男」である。十年程前に深夜放送を視聴した記憶はあるが、原子力政策囂しき現在において改めての感慨があると言って良い。
 腹腹時計チックな小型原子爆弾を踊りながら、鉄腕アトムを自ら謳い手作りする光景は、不謹慎と病殺されそうな現代の視線においてなおキッチュな笑いには端倪すべからざるものがあろう。
 次回作の待たれる監督ナンバーワンの座を三十幾年に亘り担う長谷川和彦監督の被曝二世たる出自からしても根底は反権には違いなくとも、デモという名の無軌道な示威行為を嘲笑う様な左翼批判もまた織り込まれているところが、思想性を超越したエンターテインメントとして問答無しに愉しめた。
 何よりも1979年と言えば77年の「勝手にしやがれ」によるレコード大賞から80年の「TOKIO」に至るジュリーの全盛期であり、アイドル然とした「ハーイ、ロンドン」から丁度10年を経て惚れ惚れとする程に格好良い。同時に色を添えるのが井上堯之氏の音楽であり、こちらも早過ぎたスーパー・グループ PYGのもうひとつのあり得た世界を物語っていよう。
 付言するならばあっさりと殺されて仕舞うヒロイン役、池上季美子氏の美しさだろうか。こちらは趣味趣向かも知れないが。
 年末を締め括るに相応しいかは兎も角、名作は時を経て接すると新たな感慨を齋すというひとつの例示には違いなかったろう。

12月29日(月) 七〇 八〇は小僧っこ  -スポーツ - プロ野球-

g914.jpg 丁度30年前に「プロ野球50年史」を初めて手にした時には、図書館に新聞の縮小版を求め、古書店で選手名鑑を漁っていた移籍・トレードを専門とする自称野球評論家は、何よりも歴年の監督・コーチ・選手一覧に狂喜乱舞したものである。
 それから10年を経た60年史を勢い勇んで購入しても改訂版の域を超えず、70年史に至っては見送りに及んでいたが、今般80年史に25千円の大枚を叩く決意に至ったのは、ひとつには1975年版選手名鑑を含む数刷の復刻版週刊ベースボールという初回特典に釣られたが為に他ならないものの、同時に選手登録をはじめとするデータがDVDの形で電子媒体として提供される点が琴線に触れたと言ってよい。
 ただ結論から言えば、兎角記録が曖昧なシーズン途上での異動、中でも球団を超えた移籍に付いては概ね網羅されていたとしても、シーズン半ばでの引退、コーチやスカウトとしての登録変更については素人目で見ても些かの欠落を否定出来ない精度に留まっていたのは残念だった。
g935.jpg 勿論これらは球団の公式発表と野球機構への届出が必ずしも一致するとは限らないが、検索機能も極めて貧弱であり、そもそも今の御時勢ならばスタンドアロンのDVDに留めずネット上でデータベースと接続し、市井の野球フリークの指摘を踏まえて経年更新し次の10年に備える位の構えがあって然るべきであろう。
 ベースボール・マガジン社の一層の飛躍を期待したい。

 それに付けても黒田投手の凱旋帰国には驚いた。そもそも如何な大物であろうと本場米国大リーグを後にするのは、今般の松坂投手においておや尾羽打ち枯らしてのケースが殆どであり、だからこそフリーハンドであっても出国時の球団への帰巣は稀である。
 現にフリーエージェントの拘束力が二年に及ぶ為に中村紀洋"氏"は近鉄から権限を継承したオリックスに戻り、逆に横浜からのFAだった小宮山元投手はバレンタイン・ロッテ復帰に一年の浪人を余儀無くされたが、純粋に元の鞘に収まったのは高津元投手ぐらいではなかろうか。
 丁度カープが地域密着の波に乗ったか集客、力量ともに再興過程に入った客観情勢も後押しはしたろうが、わが国に受け入れられ易い浪花節、180度逆の形で舞い戻った新井兄選手と相俟つかは兎も角、広島球団はこの僥倖を真の復辟へと結び付けることが出来るのだろうか。

12月28日(日) 九階裏の攻防  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

g910.jpg 年末の予算編成と言えば、嘗ては大蔵原案から政府原案に至るひとつの様式美の世界が営まれていたものである。
 その間に天長節という祭日が誕生したが故もあろうが、今や合理化により大臣折衝に向かう閣僚を拍手で送り出す様な演出にもお目に掛かれず、永田町の年の瀬は喧騒が薄れつつある。
 だからこそ年末選挙にも拘わらず暫定予算を回避すべく離れ業も浮上したのだろうが、逆算すればその前段となる来年度税制大綱は年内に完パケしていなければならない。
 けだし先週末こそ高度成長期の猛烈企業戦士の如くひと月振りの連休に感慨を新たにしていたが、曜日の感覚の無い世界に逆戻り、日中は御役後免の昨日も夜半某政府高官とカイピリーニャの杯を重ね、幾許かの宿酔いとともに明けては永田町へと日参する年納めモードに程遠い日々である。
g911.jpg 元より水先案内人が肩肘を張っても航海の波高きを打開し得る道理も無かろうが、行き付けになるには短期集中で飲み屋に通うべしの原理に倣うまでも無く、年末を謳歌する世間を余所に関係各位と連日顔を合わせていると、同病相憐れむではないが恰も同じターゲットを目途にひと仕事企む仲間意識擬きが醸成されたとひとりほくそ笑むのは、些か美しく自己満悦し過ぎかも知れないが。

 「政党」を規程する立法が政党助成法の他に無く、国政選挙における2%の得票乃至は五議席を以て交付金の対象とする制度が存在する以上、年末年始に雨後の筍の如くに新党の設立、既存政党の再編が行われるのはやむを得ない。従って政党要件を失い法制上「諸派」扱いとなった政党がその回復を企図として無所属議員に触手を伸ばすのも、組織としては当然の摂理であろう。
 ただ当該五議席目がかの山本太郎氏とは余りにも想定の域を超えてはいまいか。次回参院選においては非改選の山本氏を前面に立て、当人が立候補しない選挙における「山本太郎」票を無効でなく政党票とする為の個人名の党名への混入という選挙戦術だったとしても、「生活の党となかまたち」ならまだしも「生活の党と山本太郎となかまたち」の「なかまたち」とは院外の特定勢力を示すのではないかという不気味な邪推を齋しかねない。
 こちらの仲間意識は憶測では済まされないのではないか。

12月25日(木) ひしめきの聖夜  -育児 - パパ育児日記。-

g917.jpg  ヒアリングが遅れたおかげで一昨日の天長節は日に二度も豊島園に赴く羽目に陥った。元より映画に併せてトイザらスに立ち寄れば合理的には違いないが、小学二年の公資は未だ半信半疑ながらサンタクロースの飛来を否定せず、三年上の兄祐旭も敢えて口を噤んでいるから父があからさまに買い物を始めて仕舞っては興醒めも著しかろう。
 サンタへの釣書にも第一希望はスマホと明示してあったが流石に許容されず、同じスマでもスマッシュ・ブラザーズのWiiU版に新たにゲーム専用とヌンチャク附属も含め二体もコントローラを買い増すのだから物判り良きサンタではなかったか。

g909.jpg 選挙中は土日も行脚か会社張り付きだったから見掛け上増大しているが、昼よりも時には仕事らしくある宴席がカウントされない平素と、実労働時間に鑑みれば警鐘を鳴らされる程の甚大な格差は認められない。そもそも幾ら字面通りの「管理」職には不適格でも時間管理に浴さない、今様に則れば白襟不参入の対象なのだから在社の濃淡は無関係の筈である。
 にも拘わらず、かつ好き好んで長時間労働に身を窶した訳でも無かるまいに杓子定規に形ばかりの身体検査を強要されるのでは溜まったものではない。
 加えてこの医師過剰すら囁かれる時代にサービス業たる気配り薄く何故に検診が遅れたかと失跡される始末では、長時間勤務に起因する負荷以上に検診に伴うストレスで身体に異常を来たしかねない。
 そもそも職業軍人でもあるまいに、身長が伸び縮みする程の過剰労働に身を曝す恐れがあるならば企業体質自体が問われるべきだろう。
 翔んだクリスマス・プレゼント。

12月23日(祝) 妖怪の仕業  -アニメ・コミック - アニメ-

g908.jpg  公開間もない妖怪ウォッチ初のロードショーにわざわざ子供達と赴いたのはその圧倒的な人気の秘訣を探るためにあったと言っても過言ではない。
 勿論、同様にゲームやカードと連動し善悪の異形のキャラクター同士が闘うポケモンがロードムービー的な人間サイドの関係性や掛け合いの妙を重視したが故に、ヤッターマン・シリーズ同様の笑いの可能性を有しながら、嘗ての少年ジャンプの謳い文句が如く文部省推薦型の正統児童向けテレビ漫画の域を超えられなかったのに対し、恐らくは親世代の歓心に配慮したのだろう主たる購買層たる児童・幼児には到底理解不能な楽屋落ち、内輪受けの類に満ち溢れている点が栄華を誇ったポケモンからの王座交替のひとつの鍵との分析は既に多数指摘されているところである。
 ただドラえもんをはじめ多くのTVアニメの映画化がキャラクターを転用した、当該アニメにおける日常と切り離された冒険譚である様に、『映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!』もまたTV版とは構成を異にしている分、親世代に向けたメッセージは皆無に等しい。従って「ペンギンの問題」に代表される極端な不条理とは一線を画しながらも成人の視聴に耐え得る笑いの要素は適度に施されてはいるものの、福岡と熊本という従来の全国ネット番組において舞台化されることの少なかった地域特性も特段活かされているとは思い難かった。
 忖度するだに子供向けアニメの映画版という時点で保護者共々の集客が見込まれるから親世代へのアピールの必然性は薄れるということだろうか。シネマコンプレックスにより再生の途を歩んだと謂えども、未だテレビが白黒だった高度成長期における「総天然色」宜しく、3Dといった映画館たる舞台設定で無ければ視聴し得ない仕掛けを講じない限り映画館に足を運ぶのは好事家の気紛れに留まり、洋画は押し並べてDVD二次利用主体という二極分化の中で、妖怪ウォッチの看板だけで満員御礼を獲得するドル箱の前途は明るかろう。
 畢竟、メダル誕生の経緯も判りそれなりに楽しめたが。

12月22日(月) さよなら私  -テレビ・ラジオ - テレビドラマ-

 「美徳のよろめき」がその背徳性を以て指弾された時分に比べれば世論の許容も進んだのだろうが、80年代の「金曜日の妻たちへ」から主役の年齢が下がりつつあるのは、主たるドラマ視聴層たるトレンディ・ドラマに刷り込まれたバブル世代をターゲットとするのみならず、今や曾てのホームドラマの代替として機能し得る程に「不倫」が市民権を獲得したひとつの証佐なのかも知れない。
 例えば肉体と人格の入れ替わりという超常現象を基盤とする「さよなら私」は尾美としのり氏の起用からしても明らかに嘗ての「転校生」からの引用に違いない。確かにドラマの大半を通じて務める反対側の役柄に見合うべく、顔面を交換した映画「フェイスオフ」同様の配役の妙こそあれ、高校生のラブコメディが不倫の泥試合に置き換わるところに時の流れを感じさせる。
g907.jpg  ただ視点を逆にしてみれば、人間同士の衝突が精神を反転させるという科学的には決して解明し得ないシチュエーションの再利用は、人目を引く様なドラマの舞台設定の限界をも示しているのでは無かろうか。
 「戦国自衛隊」に初めて接した際にはその破天荒さに仰天したものだが、再三のリメイクは戦国時代へのタイムトラベルなる非現実性への忌避感を解消させ、その延長線上に「信長協奏曲」が存在していると位置付けよう。不倫や信長という安定的な支持層を持つテーマを、本来なら到底相容れないであろう市民権を得たサイエンス・フィクションの装いで再構築する、ドラマのプロデューサーにも従来以上にサンプリングやリミックス的な勘所が要求されるのは音楽同様なのだろう。

 端から重量に耐え切れない柔な造作なのか、製作者たる私の手抜きに起因するのか、漸く一段落して崩壊した本棚の代替を漸く組み立てる。
 髪を切り、年賀状を印刷しつつ、書籍の散乱した部屋を片付ける。悲惨だったこの一年の記憶を全て溶解させるが如くに。

12月21日(日) ひとり参謀本部  -テレビ・ラジオ - 大河ドラマ-

g906.jpg  このところ大河ドラマとは暫く御無沙汰だったから最終回まで概ね視聴したのも「江」以来、録画して欠かさず毎週の域に至るのは「利家とまつ」から12年振りになるだろうか。
 短躯ながら時代劇の似合うカミセン岡田氏と確かに美形だが年を経る毎に三面怪人ダダにしか見えなくなってきた中谷氏夫妻の配役の妙もあろうが、矢張り大河は戦国時代とのジンクスと言うより当然の摂理を改めて強く認識させる、総選挙で消費増税同様に先送りになった官兵衛の最終回ではあった。
 勿論、戦国時代である以上、信長、秀吉、家康以外は必ず後半生が野心を抱きながら夢破れましたという尻切れ蜻蛉チックな結末に至るのは独眼竜政宗以来変わることの無い陥穽に他ならないが、それは軍師たる黒田如水が関ヶ原にあたって西軍の背後を突くかの如くに九州制覇を目指したという幾分誇張された史実を以てしてなお、結果が遅かりし由良の介では画竜点睛を欠くこと夥しかろう。
 しかも戦後民主主義教育の賜物たろうか、軍師でありながら反戦思想という矛盾を抱えた人物に仕立てあげられたおかげで、本来ひとつの魅せ場であるべきかつ敗走に終わったからこそ現下の日韓情勢に鑑みても描き易い筈の朝鮮出兵に際しても些か煮え切らない男にしか映らない。
 そもそも昨今の大河は総じてコスト削減なのか撮影所自体の縮減故かは定かでないが、合戦そのものの映像は非常に局部的で時代劇らしいスペクタクルは追い求められないから勢いホームドラマのタイムスリップ仕様で矢鱈と奥方の存在感が増す傾向にあり、「まつ」の深謀遠慮に比べ大名たる前田利家が殆んど歴史の傍観者の如く描かれていたのが適例だったろう。
 それに比すれば人生自体が波瀾万丈な本人の存在感は充分だったが、寧ろ軍師として須く官兵衛の手柄が如く扱いには、これも大河全般に陥り易い罠ではあるが天地人、まつ、葵と重ね合わせていくと到底整合性が採れなかろう、他者の業績と被って功績調書の切り分けを指摘されまいかと痛くも無い腹を探りたくなる。
 来年は幕末かつマイナーな主人公、再来年は連続ドラマかつ時代劇という三谷幸喜氏の鬼門と不安要素を抱えているから、今年はまず幸せな巡り合わせだったと〆ておこう。

12月20日(土) 銀河の歴史がまた一頁  -小説・文学 - 文学・小説-

g905.jpg  銀河英雄伝説に触れたのは大学時代、深夜のアニメ放送が皮切りだったから厳密にはリアルタイムからは少し遅れている。放映自体は早々に打ち切りになったがそれが引き金となって原作を読破し、賢者に依る独裁と凡庸なる衆愚政治の比較考量たる民主主義の最良のテキストとして、かのチャーチル英国首相の名言「It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried」が想起される思いだった。
 その鮮烈さは永田町周辺居住者として流されゆく日々においても少しとして薄れてはいないが、膨大な新書版全十巻を読み返す気力までは涌き出なかったところ今更の様に漫画版を発見して買い漁ってみたものの、断続的な連載のためヤン・ウェンリーが亡くなるまでにもあと幾年では隔靴掻痒も極まり無い。
 そこで原点に返り一巻から愚直にレンタルDVD作戦に邁進すると、漫画では現在も連載中の「英雄たちの肖像」シリーズに入ってからはとくにダイジェスト版の傾向が強くなり、同時にキャラクターも年齢や性別まで含め適宜改編されていることから却って原版の記憶がフラッシュバック宜しく呼び戻されたが、ラインハルトが余りにも急速に体調を悪化させての末期の展開には些かの強引さを禁じ得ないと同時に、新たなるヒントにも預かった。
 勿論、通読でなく通視してかの「ゴジラとヤマトと僕等の民主主義」ではないが、矢張り痛感されるのは敵役はアーリア系という共通構造である。確かに宇宙戦艦ヤマトがわが国が連合国側に転じた大東亜戦争の再戦である程には単純ではないが、モンゴロイドとアングロサクソンを善玉に規定する点では大差無い。
 ただそこに帝位継承者がその地位に相応しくなければ廃絶も辞せずと遺言宜しく述べるラインハルトの姿を重ねると、また違った解釈も導き出されよう。
 即ち帝位の継承を自明の理とせず恰も民主主義の有用性を肯定したかの如くに受け止められているが、それは飽く迄万世一系による絶対君主の否定に過ぎず、賢者による独裁そのものには何等の評価を与えるものではない。
 この解釈に基づけば、優劣立場が逆転しているとはいえ「同盟」側が易性革命を奉ずる大陸と時限的な元首とも言うべき大統領制を採用した超大国を類推させる二人の主人公を擁している構成もまた象徴的に見えてくる。
 一体、田中芳樹氏は如何なる知謀を以てしてこの壮大なる政治学における示唆に満ち溢れたスペースオペラを30代前半にして書き上げたのだろうか。銀河の教えもまた一頁。

12月15日(月) 三百代議  -政治・経済 - 衆議院選挙-

g903.jpg  消費増税の繰り延べたる大義名分を備えたとはいえ党利党略の謗りは免れ得まいとの読みは振り返れば些か情緒的に過ぎたのだろうか。そもそも総選挙とは押し並べて与党にとって最適なる時期に作為的な判断を下すもので、過去二回の任期満了をも視野に入る程の追い込まれ型こそが異常という冷徹な論理に立ち返れば、反論は赦されないのが今般の結末の示すところだろう。
 確かに公示間もない大勝報道のアナウンス効果は自民の比例票を一定程度減少させたろうし、愛知の互助会に加盟した角番大関宜しき8勝7敗の様に元来幾分の苦境を予測された地域には逆転をも齊した筈である。
 それでもかの「死んだふり」86年ダブルの、経済状況が芳しければ与野党等しくの準備不足はストレートに与党有利に働くという記憶が選挙制度を超えて再生され結果、最早野党には極端に追い風を受けた大逆転に預からなければ過半数はおろか接戦を演ずる展望すら喪わしめたのではないか。
 前回人気を博した「第三極」が共倒れした教訓は、維新の分裂が石原次世代を半ば泡沫に追いやり、みんなが解党に至る中で、この短期間においても民主・維新の二代野党にある程度の候補者調整を具現させるだけの危機感を与えていたが、結果的には乱立しようともしまいとも与党第一党が300議席近くを獲得する構図には何等の変化も無かったのである。
 翻れば05年の郵政選挙、12年の政権交代とわが国は三度に亘り「熱い」選挙を経験し、だからこそ振り子が振れる様な著しい議席の集積を齊したと錯覚していたが、候補者の多くが政権復帰に至る前回の様な有権者の好反応を実感出来ないと述べる消極的選択であっても、中庸に回帰することを小選挙区制は許さないという帰結を我々は得たことになる。
 既にアベノミクスは第三の矢の実効性を問われることなく、円安とマネタリズムの齊した大企業の内部留保を投資よりはマネーの循環に充当すべしとの、日本共産党に相通ずる論理に満ち溢れている。それが本当に地方の再生に寄与するのか、代議を地域の中核企業の利益代弁者に化さしめるだけではないのかとの疑念を抱きつつ、更なる安定政権に直面する経済界はこの新たなる経済理論を静かに受け入れなければならないのだろう。
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