コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

6月30日(月) 環境なる美名の下に  -政治・経済 - 環境・資源・エネルギー-

g751.jpg  昨年に次ぐ豊田市のエコフルタウン、今般は先週本邦のみならず世界初の市販燃料電池自動車の発表あり、永田町的にも無事会期末をクリアしての好タイミングだったか、バスを仕立てて議員一行様が大挙訪れる。顔馴染みの方も少なくないからアテンドというよりは当方も顔見世興行に近い。
 残念ながら発売前の新燃料電池車が現れる様なハプニングも生じず、旧型のバスへの水素充填を有り難く拝察する。家と車と電気のスマートハウスや高度交通システム体験、或いは急遽運搬したセグウェイの紛い物こそ見世物の域は脱し得なくとも、地元物産店舗は元より既に実証実験中の電気コミューターCOMSに加え、やがて水素スタンドの商用化が進めば、単なる環境至上主義に陥らず経済発展に資する環境技術を採算ベースに則る形で提示出来るかも知れない。
 その時初めて財政余剰の大きな自治体の手慰みの域を超えた、真の見本市が誕生するのだろう。

g752.jpg  昨日は八王子からの帰路、短絡を期して明大前で途中下車してみたが、折からの台風で立ち往生の憂き目に会う。
 近年の地下化改装まで嘗て同系列だった小田急・井の頭間の改札がスルーだった下北沢と対照的に、明大前は京王・帝都の同一社内ながら両ホームが三階層離れていて乗換駅の風情に乏しい。
 所在無く佇みふと跨線橋から見下ろせば掘割になった井の頭線は丸々冠水していて当分は運転休止だろう。かくあれば行き場を失った乗客がタクシー乗り場に殺到しそうだが、幹線道と並行する京王沿線の特色なのか駅前ロータリー乏しく、豪雨で無線も不通状態とあらばお手上げである。
 結局すごすごと再び京王線で新宿経由帰還したが、何か歯車が噛み合っていない日常の象徴の如し。

6月29日(日) 二人の闘牛士  -育児 - パパ育児日記。-

g731.jpg  発表会から二週間、課題曲に磨きを掛けた公資が八王子へと出立する。
 わが国最大のピアノ・コンクール、ピティナへの参戦だが、毎年予選会場が西へ西へと移行する感があり、本年は南大沢文化会館への遠征と相成った。
 入れ替わり立ち替わりの参加者でごった返す会場に到着すると十人交替でホールへと入り、公資はその真ん中辺りと妥当な案配である。
g733.jpg  幾つかの課題曲からの選択なので似通った曲ばかりなのは当然だが、だからこそ余計に微妙な巧拙が伺える。不可解だったのは二曲目の「闘牛士」で一部メロディが演技者により半音階、バッキングのコード感も異なっており、恐らくは原曲段階で2パターンの楽譜が存在し教員により採用がマチマチなのだろうが、厳格を期するコンペティションだけに印象に残った。或いはその選択もまた戦術のひとつかも知れないが。
 元より公資に全国大会を目指す意志は無くオリンピック精神に近いが、入賞者が概ね8点以上のところ責めて6点はと個人目標を与えられながら、それにも満たなかったのは当人にとってはショックだったと見受けられる。
 確かに幼児の部ならいざ知らず、小学生ともなれば単にミス無く完奏するのは当たり前で、如何に音量や間の取り方で抑揚を付すか、その表現力が問われるのだから、何とか間に合わせましたというレベルではお話しにならないのだろう。
g732.jpg  ただ絶対音感に基づき即興で人間カラオケを務める父の如く音階主義者には、矢張りピアノとは同一楽曲を繰り返し鍛練して初めて美徳の表れる七面倒臭い楽器であり、息子達には寧ろ自由気儘な演奏を謳歌して貰いたいと、自らの技量を棚に上げて願わずにはいられないのだった。

 南大沢は昭和末期に駅の新設された新興地域だが、今や行政のみならずアウトレットにシネマコンプレックスと八王子市南西部の中核都市と化しつつある。
 ただ駅ビルのフード・テーマパーク、ミートレアを覗いてみたが、流石にこちらは閑散としていた。考えてみれば如何な真のノンベジタリアンたる私においてなお、肉ばかり貪り喰らう程の頑健な胃袋は持ち合わせていないのである。
 このところ子供と御出掛けシリーズも希少なので、行き掛けの駄賃ではあったが。

6月27日(金) 野次と喧嘩は江戸の花  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

g735.jpg  中学高校と弁論部に属し、学校は今や数少ない弁論大会の主宰校のひとつであったから伝統的な司会要綱が存在した。
 実際高校生の血の気の多さが故に留まらず、校風なのか教員の趣味だったのかは定かでないが、矢鱈と憲法改正や再軍備をテーマに掲げる学校があり、概ねは左傾した聴衆といざこざが生ずることも稀ではなく、司会はこうした事態への対処も求められていたのである。
 そのひとつに野次を諌める決まり文句があり、「野次は弁論の花と申します」と切り出し穏便に勇み足を咎めるものだった。
 確かに帝国議会における三木武吉氏の「達磨は九年」の如く、軽妙な野次は寸鉄人を討つ効用を否定出来ない。現に今般も当該野次の瞬間に当の塩村議員が一瞬、苦笑して質問が途切れたことに鑑みれば、中身の是非を別にすれば的を射た野次であったと看做すことも可能だろう。
 勿論、芸能活動という出自の如何を問わず、出産という高尚な行為を揶揄するのは厳に戒められなければならないが、政治的な側面からは当該行為以上に余りに稚拙な事後の対処が事態を拡大させたと言わざるを得まい。
 ネット上には早々に声の主と見られる議員の名前が上がっており、わざわざ一度否定してから当人が名乗り出たばかりか、今度は単独TV出演で必要以上の釈明に走る始末では、自民党支持者であっても真実は奈辺にあるのか、確かに鈴木都議は当事者に違いなかろうが、もっと大物たる真犯人を隠蔽するために罪を一身に背負わせ人身御供として供出したのではないかと疑いたくもなる。
 あまつさえ実は他党にも共同正犯が存在し、互いにパンドラの箱を閉じる為に早期の幕引きを謀ったとの説が浮上するに至っては、地方議会は伏魔殿と嘆かれても反論は難しかろう。
 事態は野次の規制というあらぬ方向に波紋を呼びつつあるが、発言者が思わず呼応して退屈なお経読みの中に本音を引き出すのもまた野次の効用だし、答弁に影響を与えた野次は「~と叫ぶ者あり」と議事録に記載され、未来永劫国家の公的記録に残るケースすらある。
 言論を封殺する前に言論を磨く努力を、言論の府は怠らないで欲しい。

6月26日(木) 身を捨ててこそ  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

g750.jpg  橋下、石原両氏の個人的な共鳴の強さを主張されるばされる程、日本維新の会の脆い構造が逆説的に浮き彫りになっていたものである。何しろ大阪と東京、地方自治体と中央の二重構造に加え、国会議員団においてもたちあがれ由来の旧自民の重鎮、民主転向組の実務幹部に次の選挙すら覚束無い大量の一回生と三分されている状態で、その危うい均衡の一角たる石原共同代表の存在感が健康面からも薄れたのだとすれば、協議離婚は最上の解決策だったと言わざるを得ない。
 ただ旧名称への回帰に何等かの支障が生じたのかは定かでないが、70代の長老陣が司る新党の名称が「次世代の党」とは些かエスプリが効き過ぎているではないか。
 元より当事者は真剣に次世代への架け橋、礎たらんとする捨て身の心意気を示したのかも知れないが、少なくとも次期総選挙を闘うには得策とは言い難いネーミングに鑑みれば、早々の再編を視野においての措置であり、同時に健康面からの党首交替とともに僅か数年前には待望久しかった「石原新党」が完全に頓挫したという事実を物語っている。
 先の総選挙を太陽の党のまま迎えていれば大半の一回生は比例でも泡沫に過ぎなかったろうから、中選挙区期ならば保守系無所属として選挙戦に挑んだであろう層にバッジ経験を与えるという意味で同衾の効用は存在したし、安倍政権の補完勢力たり得、風前の灯火の彼等一回生達の幾人かでも生き残らせることが出来れば、現在の自由民主党に日本新党出身者が散見される事実に待つまでもなく、「次世代の党」も名は体を表すことになるのかも知れない。
 ただ惜しむらくは石原氏を含む幹部の高齢故に賞味期限は次の総選挙までと推察され、しかしながらたとえ憲法改正という大義名分を掲げたとしても選挙前に安倍政権に合流するのは難しかろう。次世代に彼等の思想と人材を残すために「次世代の党」は残された時間に何が出来るだろうか。

g756.jpg  こちらも同じく次世代への架け橋を謳った筈が敢えなく失敗に終わった伊原西武監督である。何しろ森管理野球と東尾時代のアバウトさを旨くミックスさせていた渡辺政権から一転、私生活まで管理下に置くが如く先祖帰りに加えてV9時代の「巨人軍は紳士たれ」を履き違えたか、「西武グループの一員として」等と堤王国華やかりし時分ならいざ知らず、時代錯誤も甚だしきスローガンの数々に面喰らったのは選手よりもフロント・サイドではなかったか。
 帝国陸軍が軍政と軍令、教育を三分した様に、兵の運用における名参謀が教育総監においてなお名将振りを発揮出来るとは限らないという典型例だろうか。
 自らのポジションを凌駕させてなお後進を育てるとは言うは易くとも、須く自我のある人間にとって難しい事業は無い。

6月22日(日) 丑の時代  -グルメ - 焼肉-

g741.jpg  振り返れば我々の世代において、すき焼き或いはすき煮であればいざ知らず、幼少期から恒常的に焼肉を食した層は希少ではなかろうか。
 かく言う私も恐らく身近に焼肉に接したのは社会人と化してからであり、そこには焼肉自体の大衆化も作用していようが、野菜に御縁の無い身の上にして天に唾吐くが如き物言いには違いないものの、わが国には古来より肉だけをバクバクと喰い漁る風習は存在しなかったと言ってよい。
 勿論、本邦焼肉店には須く〆の麺類がセットされているが、本来は全く別個の料理であり、両者の混在は海外において寿司と天婦羅を一緒くたに日本料理を名乗る様なものと、ソウルに赴いて初めて理解したのである。
g742.jpg 即ち大方はナムルに包んだりキムチを摘まんだりもしようが、焼肉においてその食すべき対象物の大半が肉そのものであるのは紛うこと無き事実に他ならないし、肉食が延び盛りの胃腸を満たすに相応しいからこそ食べ放題やら安売り焼肉チェーンが膨大したのは、特別永住者の存在もあろうが、一時の韓流ブーム同様の文化戦略の一環とみなせないことも無い。
 ただ妻の外出に伴いわが子と三人近場の焼肉店に赴いてみて実感したのは、ノンベジタリアンの私にして量をこなせなくなっているのである。
 これは社用族として比較的高級上質な肉にあり付いて来た成れの果てなのかも知れないが、ふと見渡せば子供達は肉をおかずに白米を口に運ぶ、如何にもわが国伝統的な食文化を体現しているではないか。
 要は飽きもせず只菅肉ばかりを放り込む私の食生活こそが非日本的であり、幸か不幸か齢相応に胃腸も衰えた今なすべきは、今更精進料理に転向することが端から叶わないのであれば、量を求めることなく金萬に物を言わせて柔らかな肉を少量追及する姿勢を店舗選択の時点から貫くことではなかったか。
 それでもなお牛角に惹かれたりするのは、何れの日にか誰に臆することなく蟒蛇の如く腹を壊すまでバイキングに浸りたいとの欲望同様に、若き日に為し得なかった充足を求める代償行為なのだろうか。或いはそれこそが心持ちばかりの若さの誇示に過ぎないのだろうか。

6月18日(水) 賢い共同体  -ビジネス - ネットワークビジネス-

g749.jpg  昨日は例年同様に出番の無かった株主総会の裏方待機を終え、とって返して久方振りの野球見物であった。
 ハーラー・トップのオリックス西投手から連打に阿部捕手の一発と打線が爆発、到来した時分にはアクシデントで既に先発杉内投手は降板していたものの、急遽登板の元ロッテ・ドラフト一位の父を持つ笠原投手の好投ありの完封リレーと読売巨人軍のための一夜であった。
 一方で本日も連夜の観戦だが、うって変わってのシーソー・ゲームで、社会主義国キューバから売られてきたセペタ選手の一発で同点に追い付いた段階こそ随分と盛り上がったが、結局一点差負けだった。
 TV画面を見ながら優雅に喰い道楽で気が向いたらバルコニーに出て観戦という贅沢さに慣れて仕舞うと、四時間を超える様なロング・ゲームには勝ち負けを問わず早く回転して欲しいと不埒な願望が頭を擡げて来る。
 幸か不幸か本日は先方も野球そのものに特段の執着は無かったからイニングの切れ目で退散したが、明確な攻守交替のみならず「間」の多彩な野球だからこそ成立し得る些か谷町的な観戦スタイルと、蹴球はじめ時間制競技のコンテンツとしての適時性を両立させてきた、大相撲の升席とはわが国に相応しい伝統文化であると今更ながらに痛感する。

g748.jpg  勿論、ゲームの終焉を希求したのは多分に肉体疲労の積算にも起因していよう。
 某大臣を待ちわび東京ビッグサイトに数時間佇む羽目に陥ったが、考えてみればスマート・コミュニティ展に自動車会社の取り合わせも配合の妙と言うべきだろうか。
 確かにコミューター型電気自動車は近未来の共同体にもエネルギーのスマート・グリッドにも資する架け橋の如き存在だし、渋滞解消や安全運転も省エネのみならずゲゼルシャフトにもゲマインシャフトにも役立ちそうである。
 ただ猫も杓子も自動車産業の庇を借りれば展示に箔が付くという主催者の助平根性も透けてみえるところは、余りスマートとは言い難い。

6月15日(日) 北京ダックに憧れて  -育児 - パパ育児日記。-

g727.jpg  昨年は発表会の主宰者たる教諭母子の三代目誕生により楽曲選択からして出場者の自主性に委ねられた部分が多かったが、本年は通常に回帰したと読むべきなのだろう、従来は前半戦の〆に出場者全員で行われて、昨年は割愛されていた合奏も何班かに分割されるバージョンアップに見舞われた。
 即ち最初の登壇が公資はマリンバ、祐旭は高橋ユキヒロ氏宜しく中央に構えてスネア、判り易く述べれば小太鼓である。更に一曲措いて今度は祐旭がマリンバに、公資はホイッスルと忙しい。ただ娘教諭のメイン専科という御縁が無ければ生涯マリンバのバチを握る機会には巡り合わ無かっただろうから、ファイヤークラッカーのメロディを奏でる日は訪れずとも、マルチプレイヤーへの道が拓けたと感謝すべきなのだろう。
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 とくに男児の習い事は必ずしも長続きしないものだから、祐旭の年配ともなれば中堅の域に入り、二人ともピアノは午前の部ラス前の好位置に配置される。
 二週間後にコンクールを控える公資は課題曲の「スワビア風」、「闘牛士」の間に、「冬のソナチネ」、「かなしいうた」を挟む4曲構成の豪華版を何時も通り堅実に弾きこなす。更に中締めの大役となった祐旭は、八分の六拍子で軽快なリズムを刻む「真夜中の火祭」を若干のミスタッチこそあれ、これも毎度楽し気に謳歌していた。
 しかしながらおかげでギリギリまで最後尾でシャッターを切り続けていた父は舞台裏へと疾走し、楽屋でひと息着く暇すら与えられず出番が巡って来る。
g728.jpg  ただ昨年は父主導で祐旭とテクノポリスに挑んだ連弾も、今般は二人の息子に加えて他の母子も交替で入り乱れるウィリアムテル序曲とあらば、短い上に殆ど練習の必要すらない過去最大の安楽さで早々に登壇終了。恒例の写真撮影で幕となった。
 愈々祐旭も第二部に進出するか否かの瀬戸際にあるが、教えられることに忌避感の強かった父と異なり教室への意欲は失っていないから、夏休み無しと脅された六年時をクリアしたら再び市井のミュージシャンに回帰する日も訪れるかも知れない。

6月8日(日) カムカム・エブリバディ  -育児 - パパ育児日記。-

g719.jpg  自らの英語力のピークは大学一年時に約ひと月倫敦に遊行した、その末期だったろう。宿のブッキング・ミスで生した移動費の徴収交渉を英語でこなしていたのだから今思えば隔世の感甚だしい。
 事故で幼少時をジャングルに過ごした仮面ライダー・アマゾンが長じて殆ど人語を解しなかった様に、所詮言葉は必要に迫られなければ習得され難い。或いは息子達が世に羽ばたく時分には翻訳蒟蒻が具現化して語学力の相対的地位は下落しているかも知れないが、少なくとも幼少時に刷り込まれた知識が日常的な解離による減退に抵抗し得るのもまた事実だろう。
 公文式で学んだ技を披歴し、公資の挑んだ英検6級は恐らく合格は揺るぎの無いところだろうが、それなりに緊張は見られたものの、いざ解答用紙を開封する迄に40分にも及ぶ前説にうんざりしながら試験なんてそんなものと達観していたのが公資らしかった。
g718.jpg  とはいえ父宜しくヒアリングは何とか言わんとする大意だけは把握出来ても、肝心の発信がこころ悲しくなくても言葉にならないのでは御寒い限りだろう。夏に南の島を訪れる際には、培った英語力を駆使して積極果敢に南洋の美人にでも話し掛けて貰おうか。

 父としては待機中に早稲田駅近辺を練り歩き、学生時代以来四半世紀振りに早稲田奉仕園(右写真)に出会したことに驚いた。ボランティアの直訳たる「奉仕」の語が掲げられているのは、今更ながら基督教の布教の尖兵たる匂いが感じられようが、学生にとって安価な集会所を提供する引換に刷り込み効果を狙ったものなのだろうか。
 更には帰路、会場内に近衛騎兵連隊兵舎を発見する。試験会場にならなければ学習院女子大に闖入する謂れは皆無だったから、こちらは僥倖に他ならない。何事も現場に赴くべしとの教訓と又しても受け止めておこう。

6月7日(土) ロンよりせい家  -育児 - パパ育児日記。-

g675.jpg  数日前から捕らぬ狸の算段に余念の無かった公資の強い要望を受け、豪雨のなか阿佐ヶ谷は西友へと赴くも予想通り玩具コーナーはバリエーションに欠け、結局お馴染みの豊島園はトイザらスへと辿り着いた。
 考えてみれば公的な誕生祝いは来月発売の妖怪ウォッチ2に内定しているにも拘わらず、当日用として本人の申し出のままに店舗に走るのは過払いに過ぎるきらいもあろうが、父の気分転換も兼ね、矢鱈と電池消費の激しいラジコン小型ヘリと相成った。
g676.jpg  同時に勉学に勤しみ待機する祐旭の、ボードゲームたる主張を巧みに読み替え、「ご当地キャラクター ジャンポン」なる逸物を選択したのは、わが子を雀士へと導く深謀遠慮の為せる業とも言えよう。
 手牌は8枚、チーはおろかポンすらないので単純には違いないが、古くはポンジャン以来の伝統ある簡易麻雀ゲームであり、リーチの発声に続いてロンに至る過程には一定の醍醐味が感じられる。高め一攫千金は狙い難いものの、何よりも当の公資が夢中で再三プレイに興じている姿は、TVゲーム三昧による視力の悪化が懸念される中、久々のヒットに他ならない。オカザえもんに感謝したい。

g677.jpg  豊島園に程近い、嘗て友人の山梨赴任時代に工場見学に参内したシャトレーゼに誕生ケーキを発注と趣向を凝らしながら、夜はこれも公資の切なる御宣託に基づき世田谷区発祥のラーメン・チェーンせい家とは経済的にも程があろう。
 パスポートの書き替えにあたり五年前の風貌を目の当たりにすれば、当然未だ幼児にも至らぬ時分だから面影を残す程度であっても、余りに丸々と健康優良児的な現状との相違に隔世の感がある。
 麺は太麺、公資は太目、お後が宜しいようで。

6月6日(金) のどスッキリ  -スポーツ - プロ野球-

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写真は西村投手
 つい数年前まで救援投手には厳然たるヒエラルキーが存在したものである。即ち大将格の「抑え」を除けばリード乃至は僅差のビハインドで登板する「中継ぎ」の領域が混在しており、遥か足下に位置する「敗戦処理」など軍属以下の扱いだったろう。今や「中継ぎ」が細分化され嘗ては特殊技能として持て囃された「左のワンポイント」も包含する形で再編されつつあるが、最大の変化は「控え」と「中継ぎ」の地位の差が著しく縮まったことだろう。
 例えば歴代最多セーブを独走する岩瀬投手も五年間の中継ぎ、往事は下積み色の濃厚なポジションを経て花形たる「抑え」に昇格を果たしているが、昨今は寧ろ九回一イニング限定のリリーフ・エース以上に七回、八回を担う中継ぎ改めハイカラに「セットアッパー」の価値が唱えられる様になってきた。
 但しその評価については未だ振幅が見られる。米大リーグにおいてホールドが制定されたのが86年、わが国においてはその10年後にパ・リーグが採用したが、セは独自の計算式を用いたリリーフ・ポイントなるものを考案した。結果的には複雑過ぎて受け入れられず2004年に改めて両リーグともホールドに統一されたが、その際に内容が改められている。
 制度の改変はよくある事態で、74年に米国から遅れること5年にしてセーブを導入した折りにも初年度は高橋直樹投手がひとりで勝利投手とセーブを獲得するといった混乱があり、かつ数年を経ずして要件が緩和され全体にセーブ数が増加している。
 しかしながらホールドの改変はリードしている場面に留まらず同点での登板も対象とするもので、当初の検討過程でビハインドでの登板をも含む案も存在した経緯に鑑みれば必ずしも過剰とは言えないものの、問題は交替完了でないセーブ同等という米国の規定より幅広になっていることだろう。
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写真は札幌丸山球場
 即ち中継ぎの評価を求める余り、幾分勇み足で人為的に記録の上積みを図った、と色眼鏡で見るのは本邦初の200ホールドを達成した山口投手の偉業に失礼千万だが、通算勝利や安打も日米通算が当たり前になりつつある現下において、記録の尺度自体が異なるのは如何なものだろうか。

 勿論、先発投手のメルクマールとなる勝利数が分散され稲尾・スタルヒン両投手の42勝はいざ知らず20勝投手すら稀になった今、責めて救援投手は人後に落ちない怪記録を求めたいという興行的な欲求は理解出来る。
 それならばいっそ自由民主党より提起された16球団への拡張を真剣に検討してみたら如何だろうか。アジアの盟主としての職業野球の底辺の拡大たる大義名分以上に、一軍の枠が拡がれば技量の格差も大きくなりトップ・クラスにはより好記録が期待出来るのは自明の理である。
 景気が上向きつつあるという共通認識のある今こそ、議論の遡上に挙げてその端緒だけでも築くべきではなかろうか。

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