コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

10月31日(月) 忘れな草

 物心付いた頃から記憶力には自信があった。勿論、児童生徒の時代には、学校の提出物の類は再三失念していたものの、それはそもそも自己におけるプライオリティの低さ故であって、忘れてはならない事象を忘却の彼方に消逸させる等論外であった。
 だから企業人と化してからも他者からの依頼、職務命令に対し、恰も失念したが如く装おったとしても、その実手管として忘却した素振りに過ぎない局面は日常茶飯事だった。
 しかしながら先般、遥か上層の上官から、覚え書きにと念を押されて、要は週明けリマインドせよとの思し召しだったろうが、いざ月曜に至ると丸っ切り記憶が欠落して、気付いた時には当該案件が他者に降りている失態に陥った。
 確かに組織の歯車として反省するにもしくはないが、何よりも自らの智力の源泉たる記憶力への信頼を揺るがしかねない事態に脳天を殴打される想いだった。
 こうして人は限界を悟り、忘却を前提としたシステムを自らに課し、それに依存して生き長らえていくのだろう。

 臨時国会の自民党代表質問は通例では幹事長か政調会長の登壇するところ、敢えて総裁に次ぐ二番バッターに小渕幹事長代理を充ててきた。
 当然、経済状況や低姿勢振りから野田総理と嘗ての小渕総理の近似が囁かれていることを当て込んだ配役である。
 兎角、形骸化を揶揄される国会論戦だが、こうした知恵の絞り方はもっとあってもいいし、それに反応出来る国民であって欲しい。

10月30日(日) 牛後となるとも   -育児 - パパ育児日記。-

f389.jpg 予選四組の順位同士で対戦して各組の勝利チームが表彰されるのでは予選の意味が無く理不尽であると力説する父に対し、予選であっても全力を奮い勝利したのは良いことと反論する小学二年生は、この父に似ぬ真っ直ぐな感性の持ち主と言えよう。
 しかし蓋を開けてみると本日の決勝戦直前に、選手不足からいきなり予選三位リーグに配給されたのは、祐旭にとっては僥倖だったろう。
 何しろ旧所属はクラブ内を四つに分けた最強チームだったから、只でさえ技量に劣る祐旭の出番は殆ど訪れなかったろうが、著しくはレベルの異ならないメンバーに囲まれ、かつ開始当初は出場選手枠の五人ギリギリだった為に、二試合にフル出場する出世振りである。
 それでも実際に球に触れる機会は僅かだったが、第二試合では前半でキーパーを務めた経験を活かし、後半は主にバックスとして守備に活路を見出だすなど、新境地を開拓した感がある。
f390.jpg 結果的にチームはぼろ負けだったが、妙に親の声援が真剣を通り越して脅威すら感じさせる首位リーグよりも、本人が満悦だったのは、功利主義者たる父も是認しよう。
 前回練習が誕生日当日に当たり、コーチの計らいでバースデー・ゴール2点の特典を与えられ、珍しくパスを回されてシュートを打ち捲ったのもサッカー熱を高じさせているのかも知れない。
 長い表彰式を締め括る指導者の挨拶が矢鱈と教育者気取りだったのには鼻白んだが、今暫く体力増強のためにもひと踏ん張り願おうか。

 なお会場は下高井戸運動場。車道を挟んだ向かいはその数倍規模の東電グラウンドである。何れ何時の日か両者を統合した杉並総合運動場が誕生するのだろうか。

10月29日(土) カップの気持ち  -グルメ - ラーメン-

f385.jpg 今年も友人宅のハロウィン・パーティーのお招きに預かったが、一同体調芳しからぬ中、衣装も昨年の南瓜とスパイダーマンの流用とは仮装に挑む気合いにも欠けていた。
 その上遅れて出立したら毎度ながら第三京浜に乗るまでの環状横断に難航し、滞在一時間余、食べ散らかすだけで早々に辞去するとは失礼千万だろう。
f386.jpg  ならばそのまま大人しく引き揚げれば良いところ、折角戸塚へと南征したのだからと視察好きの虫が騒ぎ出し、又してもみなとみらいへ寄り道である。
 そもそも飲食物は欲した瞬間に現れるべく信条かつ、全く以て調理不如意な私にカップ麺は二十余年来に亘る夜食の友に他ならない。
 だから誕生間もない日清カップヌードルミュージアムも垂涎の的だったが、混雑のなか話題の麺作りやオリジナルカップ・デザインは到底覚束無い。辛うじて四階の遊技場に滑り込んだが、自らが麺になったが如くとの謳い文句は正直誇大広告で、カップ麺だけに消化不良に終わっては洒落にならない。
 如何にインスタントが主役でもレストランは奇を衒わず世界の麺類コーナーとしたのは妥当と思いきや子供達はカップ麺そのものを所望していたのだから、日清食品にとっては飛び切りの優良顧客である。
f387.jpg 実際、酸味や香辛料の豊富なアジアン・テイストには手を出せず、スパゲティを頬張っていたのでは東南亜細亜の屋台風のシチュエーションにもそぐわない。十数年振りに蘭州ラーメンに再会した父も、本場蘭州で朝からお代わりした感動が蘇るには至らなかったし、これではラーメン博物館の廉価版の域にも至らない。
 寧ろ71年誕生当時の初代カップ麺を再現して食べ比べをさせたり、新商品を全国販売前に投入してのサンプル調査など、目一杯カップ麺に拘った方がミュージアムの名に相応しかったのではないか。
 ともあれもう少し空いたら、是非予約して再訪を試みたい。

10月28日(金) 籤引き  -スポーツ - プロ野球-

 ドラフト制度が戦力均等化に寄与したのは事実だが、職業選択の自由たる基本的人権の侵害との批判は常々付きまとってきたし、移籍が煩雑で指名権や交渉権ですら譲渡や売買の対象となる米国に比して、新人として身を染めた球団の刻印が未来永劫野球人生を左右するわが国において「プロ野球全体がひとつの企業の様なもの」との論理は笑止千万である。
 だからこそ球界は逆指名や自由獲得枠という形でドラフトと自由競争の整合を図るべく試行錯誤を繰り返してきたが、不幸にして様々な不祥事を経て再び単純な抽選に回帰し、ただその実可能な限り選手側の意向も尊重すべきとの配慮が働きつつある帰結は、昨年の澤村投手のケース等に垣間見えていよう。
f384.jpg  こうした情勢の中だからこそ、日ハムの菅野投手強行指名は残念でならない。あたら有為な人材を恒常的に巨人軍と対戦することも能わぬ球団が、血縁の情をも断ち切らせるべく諸行に踏み切るとは、獲得の見通しも無いままに「空白の一日」の前年、江川投手を指名した福岡野球倶楽部に等しい無分別である。
 勿論、ロッテが籤を引当てて嬉し泣きした藤岡投手の例を挙げるまでもなく野球人の嗜好も分散されているから、菅野投手も北海道で新しい人生が待っているのかも知れない。ただ折角地域特性を活かし成績と経済合流性を両立させつつある日ハム球団が、全く指導者経験の無い栗山氏を監督に据えるなど迷走を始めたかに伺えるのは残念でならない。

 入団「拒否」とは恰も指名されれば否応なしに入団すべく観念に囚われた表現だが、慣例に倣えば二度の「拒否」の末に首位打者の栄誉に輝いた長野選手は信念を貫いた甲斐があったというものだろう。
 中でもシーズン末の代打逆転満塁本塁打は過去に7人しか為し得ていない希少性の高い記録であり、代打の切札・樋笠一夫、監督兼任だった晩年のミスタータイガース藤村富美男、選手生活は不遇だったが現在も卓越した指導振りを発揮している広野功ら荘々たる顔触れが並んでいる。
 日本プロ野球はこの逸材を三年に亘り社会人野球に留めおかなければならなかった損失の所以を、改めて胸に手を当てて顧みなければならない。

10月27日(木) マリオの達人  -育児 - パパ育児日記。-

f383.jpg  自らの来し方を振り返ると初めてTVゲームなるものに触れたのは友人宅でのテニス、次いでブロック崩しであり、中学時代には人並みにドンキーコングやゼビウスもプレイしていたが、長じて根気勝負の歴史シュミレーションに傾倒したのは詰まるところ反射神経に依拠するRPGには秀でられなかったからに他ならない。
 だからこそ祐旭のマリオブラザースの上達振りには舌を巻かざるを得ない。何しろ早朝6時前後には布団を抜け出し、日々単身、或いは弟を交え鍛錬に余念が無いとは見上げた根性である。しかも誰に教えられた訳でもないのにお手本プレイを反復して目に焼き付け、これを踏襲すべく飽きもせず研鑽を重ねるとは日頃お目に掛かれない丁重さである。加えて所定の生命数を失えば無尽蔵にコンティニュ出来る家庭用ゲームの特典に胡座をかくことなく、わざわざ一面に戻って地道なライフ稼ぎを経てクリアすべきステージに再挑戦するとは児童らしからぬ真摯さではないか。
f388.jpg  惜しむらくはこの情熱を多方面に発揮して貰いたいところだが、母の機転により日々マリオに取り組む前に早朝公文をルーティーンとしたのは功を奏したものの、他に見るべき成長はと問われれば、驚くべく大食漢になったのが最も特筆されるとは些か極端である。
 勿論、ピアノにしろ水泳にしろ着実に足跡を残しているし、退屈そうな授業にも程好く付き合う術を覚えつつある。何よりもわが家では相変わらず父譲りの偏食だが、給食はほぼ完食しているとは、須く飲食は好き嫌いなくを以て正と看做す世相においては、立派に社会環境への同化を果たしているではないか。
 祐旭八歳。今年も仮面ライダーベルトを所望し、フォーゼもまたバンダイ商法で品薄のため付属品からの先行導入になったが、ガタイは大人びてもかく実年齢より幾分の稚気を帯びている位の方がいい。

10月26日(水) 一期一会  -政治・経済 - 政治-

 取り分けジェネラリストたるキャリアは一年乃至は二年でポジションを転々とするから、腰を据えざるを得ない企業・団体側の担当者の方が比較的短期間で寧ろ知識的には官に対して優位に立てるのに比して、基本的に相手側の顔触れが変わらないのが永田町の特質である。
 勿論霞ヶ関も時を経て異なった立場で再び巡り合う効用は否定出来ないし、幹部クラスともなれば大なり小なり何等かの利害得失に携わり続けるから長く相対するにしくはない。
 ただ欧米諸国における政治家秘書が国会スタッフ等と同様にやがてその経歴を活かし議員やロビイストの類にステップアップするための仮初めの姿に過ぎないのに対し、翻ってわが国では秘書業もまた長期雇用慣行のもとにある。
f382.jpg  従って、ボスは代替わりしようとも永田町住人であり続ける「職業秘書」はひとつの確立された姿だし、たとえ職業として直接には政治から遠ざかったとしても、例えば今日、嘗て巡り合った折とは互いに異なる立場で、かつ意外な政党のパーティーで元秘書氏と再会したケースの如く、その御縁は幾重にも絡み続ける濃密な世界である。
 勿論リボルビング・ドアたる他風土においても矢張り立脚点を違えて再び巡り合う、そのコネクションの果たす効用は洋の東西を問わないとも言える。だから周辺居住者たるわが方もまた一歩一歩ネットワークの深遠に迫るべく時を積み重ねていかなければならない。

 極めて雑駁に大別すれば、世の中には考え過ぎる人と余り考えない人がいる。考え過ぎる人は同様に考え過ぎる人と波長が合うのか、寧ろ考えない人の方が穏当なのか。

10月23日(日) 均衡ある発展  -スポーツ - ゴルフ-

f380.jpg  ゴルフと言えば関越方面が倣い相場となっているから、偶に面子構成から他方面に向かうと、確かに遠征に伴う肉体的また金銭的な負担増は否めないものの新鮮である。
 しかも本日は送迎役も兼ね、高松ICから中央環状を東征し、常磐道を北上して北関東自動車道とは、些か杉並在住者には想定外の展開である。但し、鉄道同様に兎角放射線の充実に比して環状線が不足し、その帰結として通過車両に依る首都圏の混雑が憂えられる中、本年3月に全通した北関東道に御目見えしたのは幸いであった。
 しかも都市変遷評論家としても、車との両輪とも称される職務柄としても道路フリークの末席を汚す身の上としては、同道を逆に西走し東北道経由と全くの別ルートで帰路に付いたのも、その効用を体感するという意味で有意義に他ならなかった。
f381.jpg  更には渋滞情報とにらめっこしながら外環に入り、わが国唯一の高速上の信号交叉たる美女木ジャンクションを経、トイレ休憩の穴場たる志村PA(写真)も現物確認出来るとは、まさに帰りがけの駄賃以外の何物でもない。
 ゴルフ自体はドライバーは概ね真っ直ぐ飛んだが、実に戦略的に好配置された大量のバンカーに苦しみ前半ダボ・ペース。後半は連続ボギーで期待を持たせたが折角のツーオンでもボギーが運の尽きで、何とか50は切ったが結果は本年平均値並に留まった。
 寧ろ後半ふたつのショートでオナーがベタピンに付けながら、何れもその内側に付けてニアピンをかっ浚った御仁の、ここ一番の勝負強さに舌を巻いた。
 梵天丸もかくありたい。

10月22日(土) ハイポーズ  -写真 - 子供-

f377.jpg 先週の明治神宮に続く七五三イベントは写真撮影である。この筋ではスタジオアリスが最大手だが今般敢えて荻窪ピノキオに回帰したのは、画像データの安価というわが家の嗜好に見合った特性故に他ならない。
 ただ風邪気味で胃の不調から辛くも嘔吐を経て立ち直った公資が主役らしく和装で、十月とは思えぬ陽気の中、前髪を濡らしながらも何カットもの撮影を従順にこなしていたのに対し、家族写真に移った途端、僅か一ポーズにも拘わらず祐旭が微動だにせず環境に耐えられない。
f379.jpg 従って頭を叩かれては一層機嫌を悪くして更に堪え性を無くしていくが、実は撮影者に顎を引けだの左右に動けだの指令されながらまな板の上の鯉と化す行為は、同じくせっかちな父もまた非常に不得手である。
 全員の構図を整え、最大公約数を得て徐ろにシャッターを切る撮影が王道であるのは事実だが、それは銀塩時代の名残に過ぎず、勿論一定のカメラ捌きは学んでいようが、どう見ても職業写真家とは見受けられない撮影者が旧来の撮影方法に拘泥する謂れが解らない。
f378.jpg  確かに消去可能なデジカメの特性を活かし、矢鱈滅多に連写して成功例を選択する手法に移行すれば、事後のカット選びに莫大な時間を要する危険性を秘めているとの抗弁は理解出来る。しかしながらそうすれば逆に撮影時間は短縮さるようし、私の如く微妙なカット違いに拘る顧客には余分な出費を喚起させる効用もあろう筈ではないのか。
 恐らくその売上増よりも迷いに迷った挙句に公式写真の数枚しか残されない、回転率を悪化させる所要コストの方が大きいとの判断に基づくのだろう。だが折角写真の確認を簡易印刷からアイパッドへと転換する設備投資を図ったのだから、撮影体制もより被写体に優しくサービスの充実を図って戴きたいところである。
 当面撮影の予定に欠ける非優良顧客の戯言ではあるが。

10月21日(金) 終わりなきマラソン  -ビジネス - ビジネス-

 学生時代、サークルでありながら同時に今で言うNPOの如く組織運営を必要とした団体執行部の末席を汚していた時分には、何れ何時の日にか企業に身をやつした暁には、報酬という絶対的な反対給付故に、そのマネジメントは相当に合理化されるであろうと夢想していたものだった。
 現実には離脱の容易な学生団体に対し、反対給付の存在から退出障壁が高く上位下達の組織原理が働き易くなるのと同時に、その退出障壁の高さが身分の安寧を斎し、結果的に報酬とは別個に相当な意欲惹起を必要とし、最後は個々人の倫理観に委ねられる構造には大差無いことを、今は知っている。
 意欲を喚起する要素が、好奇心に基づく職責への関心や人間関係を含む組織環境に起因するのは言う迄も無かろうが、その大きなひとつに責任感の賦与がある。
 一般的に権限委譲と称されるピラミッド状の組織原理に基づく職責の分担においては日常の管理運営を施行させ、何等かの支障が生じた際の責任は上位者に残存する構成であるのに対し、責任感は当事者が当該職責に他者に代替の難しい一身専属性を認めることに拠って醸成される。
 ただこの「私がやらなければ」という責任感が「余人を以て替え難い」と自他ともに認ずる域に達すると、今度は当人しか事態をコントロール出来ない個人商店化し、果ては当事者のサバイバルの糧ともなりかねないから、組織としては代替可能なフレキシビリティにも応分の配慮を払わなければならない。
 ただ一方でそれはテーラー・システム的な組織の歯車に過ぎないことを自覚させる行為でもあるから、「私にも写せます」的な安易なコピーでその責任感を否定することは厳に戒めなければならない。
 こうした両者のせめぎ合いの中で、多くの組織人は固有の職責、即ち食い扶持を見付けて自らの居場所を確立していく。そして責任感を組織マネジメント万般へと転化し得た、先刻の文脈で言えば「私が」を「私達が」に昇華する術を覚えたものだけが、管理者の美名のもとに新たな歯車となる。
 私達はそうあるだろうか。そして私は、政治への想いを組織の枠組みへと還流させることが出来るのだろうか。

10月19日(水) シナリオのあるドラマ  -政治・経済 - 環境・資源・エネルギー-

 南に続いては北の「やらせ」問題である。確かに説明会にしろシンポジウムにしろ、広く衆議を集める民主主義のプロセスに他ならず、そこに意図的なバイアスを附加すれば真偽が歪められる恐れが生ずるというのは道理である。
 ただ投票行動が候補者との距離感や好悪の情に左右される様に、凡ゆる意思決定はその正当性のみを根拠とするものではなく、寧ろ法案審議における公聴会がその内容如何は全く問われず、手続き上の必須過程として日程だけが注目の的となるのに比べれば、多数の獲得を目指した組織的な働き掛けは、余程民主主義的な行為とも言える。 勿論そこに優越的地位に基づく強制が介在すると類推されるのが今般の最大の問題点ではあろうが、現に地域に安定的なインフラ供給と雇用と、原子力の潜在的驚異に伴う見返りを供与してきた原子力発電に携わってきた側がそれを肯定する意志を表明するのは自然である。
 アテナイのポリスの如く、叡知を持った自然人が等しく自らの理性に基づき言論を駆使する、原始直接民主主義的社会を理想として崇めるのは自由だが、であればこそ現下の情勢においては否定的に捉えられる蓋然性の高い声も含めて衆議を集めることにこそ多数決原理の意義がある。原発反対こそ絶対的な正義としてそれに反する思想を、手法の非道義性に乗じて圧殺するのでは、事前に描いたストーリーに合致した映像、コメントのみ填め合わせて物語を構築するTVマスコミと何等変わりない。
 段取りの稚拙さや行政との結託といった非難されるべき要素が多々あるのは重々承知の上で、民意とは何かとひと言問い掛けたくなる今日この頃である。
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