コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

1月31日(土) ガイアとアグルも見てね  -育児 - パパ育児日記。-

d980.jpg 最近公資は別離の挨拶を促すと「さようなら」に加え誰かれ構わず「ガイアとアグルも見てね」と一言添えている。既にリアルタイムでウルトラ・シリーズの新作も製作されていないし、ガイアの放映も十年前だから、現在小中学生である人物かその親世代でなければそもそも"ガイアとアグル"がウルトラマンであることも知らないだろう。幼な心にも愛するガイアの宣伝に努めたいという健気な思いかも知れないが、当然二歳半の公資の交遊範囲に該当層はいないので、後は兄である祐旭の如く若い身空でウルトラ・フリークに仕立て上げられた乳幼児という数少ない例外を除き、言われた方は呆気に取られる他はない。
 ただ正確を期せばガイアも昨年の映画超ウルトラ8兄弟で主演のひとりとに抜擢され、実質的には再デビューを果たしたと言ってよい。だからこそ4月の博品館劇場、ウルトラ・ヒーローバトルでピンで主役を張る栄誉に見舞われることとなったのだろう。ガイアに変身する高山我夢役の吉岡毅志氏本人も出演とは豪華と見るかドサ回りっぽくて哀れを誘うと言うべきか微妙だが、公資にお誂え向きであることに変わりはない。問題があるとすれば祐旭が余りに怪獣を怖がるのでこのヒーロー・バトルも平成18年末に赴いて以来御無沙汰であることだが、どうしても祐旭が渋れば公資と二人でもと博品館にやって来た。本日は既観劇者への先行発売日、かつそれを記念してガイア自身が営業に訪れるというのである。
 慌てることもあるまいと店の開く11時に到着すると未だ発売開始から一時間にして、土日は劇場後衛が大半とは猛烈なプレミア・チケットではないか。首尾よく入手こそ叶ったが博品館恐るべし。確かに前回は直前に思い立ってYahooオークションで入手した記憶があるから、大半は先行販売で売り切れて仕舞うのだろう。考えてみたら大怪獣バトルで小一時間を費やし、颯爽と登場したガイアと握手をした公資は喜色満面であったし、祐旭も恐らくは着包みのチャックが旨く隠れていた点を捉え「今日は本物だった」と報告してきたくらいからこの対面だけでも充分で、二歳以下無償の公資分を除いても大枚6000円近くをわざわざ費やす必然性には乏しかったかも知れないが。

1月30日(金) 昔の名前で出ています  -音楽 - 懐かしい歌謡曲-

d979.jpg 名のあったバンドの再結成はたとえ従前の当該バンドの活動に特段の関心が無かったとしても、興味を喚ぶものである。勿論、アリスやチューリップ、或いは先頃ツアー中にメンバーが急逝されたフォーリーブスの様に興行主体のケースは純粋にフリークのためのものだろう。或いは鳴り物入りの再結成であってもゴダイゴやレベッカの如く、その音楽性を象徴していたヴォーカリストの歌唱力が著しく減退していたために往年のファンを歎かせたケースもある。ただ往々にして陥りがちなのは、リーダー格の人物のソロ活動の延長線上に終始して再結成の意味を見出だせないままに再解散を迎えることで、それは前述とはまた違った意味で、当該バンドの栄光の歴史の晩節を汚しかねない事態である。
 ユニコーン復活を耳にした際に感じたのはそんな興味半分、不安半分であった。取り立てて贔屓にする程ではなくとも楽曲には唸らせるものがあっただけに、パフィーのプロデュースも含めて大御所にはなり果てたものの、解散後の奥田民生氏の音楽性は正直なところ期待を裏切るものでしかなかった。それは曲想こそ異なるが丁度スタイル・カウンシル解散後のポール・ウェラー氏にも似て、煌びやかかつ聴取者の嗜好に見合った楽曲製作に飽き、或いはより卑近には技巧を施した楽曲が書けなくなったからとの要素も左右しているのかも知れないが、非常にシンプルで装飾を削ぎ落とした原典回帰が如くの転向が私の性に合わなかっただけで、充分にマスの支持を得ていたのはその圧倒的な売上からも明らかであろう。
 ただ少なくとも奥田氏ソロのフォーク・ロック路線にウィングを振られたユニコーンならばわざわざ再結成する意義がないし、"民生"という名の示唆する科学的な革新性とも到底折り合わない筈である。と思いつつ眺めた本日のミュージック・ステーション・スペシャルであったが、新曲を聞く限り取り越し苦労に終わった印象がある。そもそもユニコーンが奥田氏のワンマン・バンドでなかったことも幸いしていようが、メンバーの音楽性が旨く融合されていると言うか、要は「バンドの音」になっている様に聞こえた。引き続き余り肩肘張ることなく、しかしながら応時のまま今があれば如何なる音楽になっていたかを頭の片隅で常に反芻しながら、再結成を楽しんでいただきたい。

 尾辻自民党参院議員会長が代表質問で、市場原理主義の元凶たる経済財政諮問会議・規制改革会議の廃止を主張。国会議員の直接預かり知らぬ政府機関が政策立案を主導することに議員側から不満の多いのは事実であり、その声を代弁するという意味では的を得ていると言える。
 しかしながら現下の諮問会議の地位は政府対与党という本来議院内閣制においてあるまじき構図をプレイアップするために相対的に引き上げられたものに過ぎず、小泉構造改革路線を批判するために"その元凶たる諮問会議"に怨嗟の声を浴びせる行為は、一方で小泉元首相に傷を付けずに構造改革の「陰」に光を当てる戦術を可能とするかも知れないが、同時に更に諮問会議のステイタスを高める結果にも繋がりかねない。恐らくはそれが堂々と代表質問に現れることの是非は別としても、"小泉前に戻らなければならない"という主観的には真摯な意志表明に過ぎないのだろうが。

1月29日(木) ネゴシエーター  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

 松の内も明けぬ内に始まった異例の通常国会を齎した根源、平成20年度第二次補正予算が漸く成立したが、振り返れば既に麻生内閣成立間もなくから出す出さないでひと悶着もふた悶着もあり、早期提出を強く訴えた野党が審議に入ったら入ったで給付金の切り離しという技術的な糸口から蟻の一穴を狙い、その押し並べて給付金を配るなら雇用対策に充当すべしとの主張が一定の説得力を持つだけに、与党側も丁寧丁重な国会運営に努めてきた。
 衆院採決を経て一週間ほど空転するのは双方ともに織り込み済だったろうし、一旦は23日に参院でスムースな採決が合意されたのが寧ろ驚きだったが、翻意したりまた頑迷に戻ったりを繰り返した揚句、民主党も最期には高速道路値下げはじめ国民生活に潤いを齎す政策を多く含んでいる補正予算に反対を続けるのは総選挙を見据えても得策でないし、或いは自民党内の消費税論争が一定の決着を見て突き所を失ったためだろうか、結局急転直下の採決となった。しかし些か込み入っているが、補正そのものは成立させるものの関連法案は参院に吊るしたままとするので、法的根拠を要する施策は宙ぶらりんが続くという、世間的に補正を人質に取るとの批判は回避しながら給付金の実務には入らせない、巧妙と言えば巧妙だが綱渡りの野党戦術が続いている。
 もし参院で二次補正そのものの審議が膠着したままだったならば与党側は来年度予算の審議入りも辞さない構えだったが、その事態を捉まえた新たに人口に膾炙下した用語が「並行審議」であった。そのこころは未だ当年の補正予算が国会の議題とされているいるにも拘わらず来年度予算の話しをするとは鬼が笑うではないかという論理で、ともに予算審議であれば全閣僚が拘束されるから幾ら衆参で定例日がズレているとはいえ審議スケジュールが限られるという物理的な制約以上に、実は本質的な問題提起になっている。
 詰まり一刻も早く来年度予算で手当てすることが必要ならばそもそも当該事項を二次補正に組み込むのが筋との指摘であり、これは本予算と巷間囁かれる来年度一次補正との関係において更に明確な矛盾として現れて来る。確かに本予算の審議をしている最中に補正に触れることは、当然に野党側からの予算の修正要求に直結するから、与党安定多数時代においてもそうであったが現下の情勢では更にタブーとなろう。ただ現実に事態は危急であり、既に本予算に盛り込まれた施策だけではこの苦境を乗り切るに足りないことは明白である。例えば中小企業対策は比較的政治へのアクセスがスムースであるだけに敏感に施策が整備されるが、それよりも大きな企業規模の国際競争力への配慮の大部分は一次補正で対応せざるを得ない。
 勿論、本予算は概算要求に始まる数ヶ月に及ぶ長丁場を経て編み出されるものであり、財政規律のためのシーリングであるとか凡ゆる項目に目を配った総合芸術であるから、短期的に浮上した事態には対処し難いという制度上の限界と、財務官僚の面子云々は別にして予算書を修正するための物理的に莫大な工数を勘案する必要があるのは事実である。しかしながらその制約故に現下の事態に対処すべき方策を議論出来ないとすれば本末転倒も甚だしい。今こそ野党は関連法案の成立を最大60日間遅らせることで政府案の綻びに焦点を当てるといった日本社会党的な戦術でなく、第一次補正における日本版ニューディール政策までも視野に入れた上で、その萌芽たる位置付けとしての本予算を早期に成立させる戦術に転換し、政府の対案たる一次補正案を提示して総選挙という段取りを示すべきではなかろうか。

1月26日(月) 終わりの季節  -グルメ - ラーメン-

d976.jpg 年末に亡くなられた元財界担当記者氏の「送る会」が行われる。骨髄移植を翌日に控えながら急逝されたという経緯もそうだが、ジャーナリストらしく入院中に認めた決意文に同じ病であった団十郎氏の復帰に意を強くしたとあった様に、御本人自身黄泉の国に旅立つなどとは些かも、と言うのは失礼としても充分に予想外だった素振りが伺われ、改めて残念極まりない。
 財界の要人が続々と現れ豪奢な弔問外交が繰り広げられる中、こちらも嘗て"財界"という名の同業他社広報だった方々や応時の財界担当記者と旧交を温める。十年経った割には知り合いが多かったと言うべきか、矢張り十年は長かったと言うべきか、今もこの"業界"に立ち続けて居る顔触れが圧倒的に多い中、期せずして自らの来し方に思いを馳せて仕舞った。会場となった、私にとっても思い出多き経団連会館も後僅かにして、故人の記憶とともに静かに去っていく。

d978.jpg d977.jpg
 珍しく土日を挟んで連日大手町にやって来たが、先週目を奪われたのはサンケイ広場で無償配布されていたカップ麺のキャンペーン車だった。清涼飲料や煙草ではお馴染みのフレーズだが、発売以来38年、わが国の誇る食文化、外貨獲得商品のひとつであるカップヌードルもまた「ライト」なる呼称に追い込まれるのは時代の流れか。何が軽いのか俄かには計り難いが、カロリーオフほどに厳格な定義ではなさそうだし、ノンフライ麺化により実際にカロリーが半減近くなったのならば広告審査機構JAROには充分耐えられそうである。
 大手町ではその後会食の予定だったから摘む訳にもいかず、改めて試食をと理由を付けて、このところ厳に夜食を控えているなか食してみたが、矢鱈と味が薄く感じた。ただ考えてみればカップヌードル・ノーマルそのものを長らく口にしていなかったから比較のしようが無いのであって、矢張り言葉は言魂なのかも知れない。
 学生時代、サークルに同じ苗字の人物が二人居て、一方の比較的軽そうに見える御仁を「ライト」とネーミングしたために、もう一名は「ダーク」などと呼ばれそうになっていたが、流石に大学生は乳幼児ほど残酷ではないので、周囲の自制により最終的には回避されたことを思い出す。

1月25日(日) 嵐とともにやって来た  -テレビ・ラジオ - 仮面ライダーディケイド-

d974.jpg ライダー史上最低の視聴率が憂れられ、後番組の製作すら危ぶまれた仮面ライダー・キバに替わりディケイドが始まった。別個に繰り広げられてきた過去九代の平成ライダーの世界観を統合するという触れ込みは「大決戦!★超ウルトラ8兄弟」と同じ手口で、お世辞にも恰好良いとは言い難いディケイドのフォルムも歴代ライダーに変化するための当て馬、過去の英雄に再びスポットを当てるべく狂言回しに過ぎないと考えれば納得がいく。要は過去十年の間に乳幼児、或いはその親だった世代に等しくアピールしようという魂胆で、レギュラー枠の地上波番組としては禁じ手に他ならないが、寧ろ大怪獣バトル同様に仮面ライダーも本来派生品であったカードに飲み込まれたということだろう。
 先立って展開されたカード連動型テレビ・ゲーム「ガンバライド」が、敵役である怪獣をメイン・キャラクターに仕立てた大怪獣バトルと異なり直截にライダーそのもののカードからスタートしたのも番組に合わせた作りだろうが、同時にライダー怪人はウルトラ怪獣ほどポピュラーでないという自制も働いていよう。成る程ショッカーの大幹部ゾル大佐、死神博士、地獄大使と並べてみても、バルタン星人、レッドキングといった面々に相対してはネームバリューの落差は明らかである。
d975.jpg ただ逆に言えばTVもゲーム機に倣ってライダー同士の争いを魅せるのが番組存続の絶対条件になっていたのではないか。「ガンバライド」は僅かひと度の経験とファンブックを仔細に検証する限りは、大怪獣バトルに比べ幾分複雑で、元来仮面ライダーにはカルビーはじめ菓子のオマケとしての、幾多のコレクターをも生み出してきたカード文化の積み重ねがあることも踏まえてか、多分に大怪獣バトルよりも年齢の高い層をターゲットにしている節が伺え、これも平成ライダーで育ち既に卒業した層をゲーム経由回帰させる思惑と符号する。第二、第三弾と進んでいく内に怪人へと派生させていく筋書きだろうが、一方で映像作品もまた視聴率が順調ならば現行の十人ライダーを維持出来たとしても、低迷すればストロンガーの後半2クールの如く1号から順に昔の名前で出ていますのオンパレードで急場を凌ぐ事態にも陥りかねない。Gackt氏の主題歌起用を含め大いに製作費を注ぎ込んでいるであろう新番組だが、一歩間違えればまさにライダーの墓標ともなりかねない正念場たろう。わが家は当面、大怪獣バトルに絞りガンバライドは模様眺めの見込みだが、喫禁の事態を迎えたら特撮フリークとして再考したい。

1月24日(土)-25日(日) 舌の記憶  -グルメ - ラーメン-

d971.jpg 現代において食文化の地域性を見聞するに最適なのは、その相違の明確性とフィールドワークの容易さからしてカップ麺であるということは、全国販売に先駆け特定地域を対象にサンプル調査を実施する商習慣からしてもアナガチ的外れではないだろう。
 先頃その名も"カープ"と直截な広島風お好み焼き店を訪れると長蛇の列だったため、偶さかに階下の居酒屋に転向すると今度は中日ドラゴンズ一色で驚いたのだが、そこで発見したのが台湾ラーメンである。こちらこそ初耳だったが、同道した愛知県生活の長い二氏は恰も年来の友に再会したかの素振りで、その際は特段気にも止めず今日に至るも、東海地方ローカルのコンビニ、サークルKで文字通りの"台湾ラーメン"に再び見え、走馬灯の様に記憶が甦った。
 中村屋におけるボースの如く名古屋財界が中華民国独立の志士を匿い支援したという美談は寡聞にして聞かないし、大方トレンドに靡き易い名古屋人の特性に乗じて台湾ラーメンなる、恐らくは中華民国のラーメンそのものとは似て非なるものを流行らせた仕掛け人が居るのだろう。幾分辛めで坦々麺から挽き肉を少々間引いた様な味わいはなかなかに美味なものがあったが、果たして全国的に市民権を得るにはもうひと捻り欲しいところである。

d972.jpg かく思い巡らせると今やわが国全土を席巻したかの如くとんこつの隆盛には改めて刮目せざるを得ないが、それでもこれまで食した最も美味なとんこつを顧みると、果たして平成十七年の四月の福岡に辿り着く。店の名すら忘れて仕舞ったのに時期だけは決して記憶から薄れることが無いのは某先生悲願の補選返り咲きに向け、選挙実務の研修の名の下に数日間ずつ現地入りしていた、まさにその最中の出来事だったからである。
 その日は住宅地図に手書きでプロットされた掲示板のポスターを、地元建設会社から派遣された、と言っても毎度同じメンバーが異なる企業から定例的に集結する、原始ゲマインシャフトの一員が如く御仁達のひとりとペアになり一枚一枚張替えるという、ある種宝探しの様な悦びも見出だし得る一日だったが、割り当てられた職責を終え勇躍帰還したところに「小泉総裁来たる」の告知ステッカーを再び重ね貼りすべくもう一周との無情のお題が下ったのだった。忿懣やる方なくという訳ではなく、まあ選挙ならこんなこともあろうかと淡々、かくなる上は腹拵えしてからとグループで赴いたのがその店だった。
d973.jpg  労働の狭間の心地良い空腹感と、地元の人行き着けという穴場性、更には選挙特有の高揚感という様々な観念に裏打ちされ、えもいわれぬ如き味わいを脳裏に残したものが、時を経て更に美化されているのだろう。確か比較的濃厚なとんこつだった覚えがあるが、相前後して矢張り福岡で遭遇し、味よりも先ずひとり一人が個別スペースに区切られたカウンター仕様に驚かされた一蘭と混同しているのかも知れない。それ自体は奇抜さを衒った話題性以上に客の長居を防ぎ回転を早くするための智恵なのだろうが、麺の細太、固さ、こってり・あっさり等個々人の好みを事前に用紙で申告するシステムは斬新なものだった。勿論これも、昨年末に小倉で久々に一蘭にお目見えしたために印象が増幅されている可能性もある。人の記憶とはかく宛てにならないものなのか。

 年に二回の名古屋詣での新年版。前回はしまじろうに赴いたが今般は寒さの折り恒例の墓参以外に何等のイベントも設営しなかったので、子供達は祖父母と接するだけでもそれなりにはしゃいでいるが、父は退屈でマッサージ機に身を窶したりする。元来、ぼーっとするのが勿体なく耐え難い質なので、遅れがちな本コラムのタイムラグ回復に精を出してみたのだが効用や如何。

1月22日(木) Going Underground

 20代の半ばから相対する他の組織体の人々と恒常的に宴席を伴にする仕事柄だったから、内輪同士で会話することは稀だったとしても席は始終同じくしている上官と改めてノミニケーションを図る気には物理的にもならなかったし、仕事柄同じ会社の同年配の方々とは殆ど接する機会も無かったからこちらもそれでは一献と話しが弾むことも到底無かった。だから同一企業のメンバーのみで酒席を持つことなど、定式化された組織体としての歓送迎会の類以外は先ず御縁の無い生活体系だった。
 しかしサラリーマン生活も足掛け十八年を迎えて今更に経費が無いのでなかなか対外的な活動が出来ないからその穴埋めにという訳では無いのだが、妙に社内の会合が嵩み、それはそれで新鮮である。取り分け人事見通しであるとか生臭い話題が飛び交うのを拝聴していると、情報を得る為にお追従に終始しているか、或いは政策論より寧ろ「政治とは」といった矢鱈と哲学的な領域に入り込むかの両極端に近い、自らの臨んで来た会合に比して如何に微温的であるか、しかしながらそれはそれで馴染める程度にサラリーマンらしくあるわが身に苦笑せざるを得ない。

d970.jpg  狼少年の如くわが集合住宅周りの電線地中化だが、愈々最終工程か、都市計画道路補助226号線は一部電線が取り外され、糸の切れた凧の如く孤立した電信柱が寂しく佇も、不思議な光景が現出している。
 しかしここに至る迄一体幾年を費やしたのだろう。掘っては埋め掘っては埋めの繰り返しで歩道の舗装も斑模様が続いたままだが、電柱が撤去されるのにはなお幾つ冬を越えなければならないのかも知れない。
 文句を言っても詮のないことで、効率より公平性を優先せざるを得ないのが行政の性であり、だからこそ選択と集中とは凡そ縁遠い世界であることを改めて目の当たりにさせられ歎息をついて仕舞う。パブリックが「国土の均衡ある発展」と親和性が高いのは配分のパイの拡大した高度成長期に限ったことではない、という教訓であろう。

1月21日(水) Change The World  -政治・経済 - オバマ大統領・政権-

d969.jpg 生粋のアフリカン・アメリカン社会を体現する生い立ちでは無かったとしても、WASPの国亜米利加に初の黒人大統領が誕生したことには違いない。就任式まで無事に終えることが出来たという事実そのものが新たな歴史であるし、早速大型経済対策の具現化を図らなければならないから、通例の新任大統領の如くハネムーンの間に品定めされる余裕の無いことも反って好都合かも知れない。
 勿論、幾ら新規性を装っても対策の柱は緑の公共事業、道路をはじめとするインフラ投資であり、補助金による環境負荷軽減効果の大きい民間の先進的な事業への投資誘発であるから、洋の東西或いは経済のイデオロギーを問わず考えることは同じだが、それをグリーン・ニューディールと名付ける辺りがプロデューサー風である。だがたとえ世界の金庫たる地位は失おうとも潜在的には世界の大市場であることに変わりはないから、それを逆手にとってゼロ金利であっても各国が米国に投資する、米国経済を支えざるを得ない構造を再認識させる、弱者の脅迫の如く戦術を採ることは依然可能であるし、その最大の影響を被るのは米国発のインフルエンザがタミフルも効かない程に変異するわが国に他なかろう。取り分け伝統的にわが国への関心が薄く大陸好みの民主党政権であるからこそ、底無しの米経済をファイナンスせざるを得ないジレンマに陥るのだとしたら、勿論それは外需主導のわが国経済回復に繋がるとしても、国内への直接の資金投入との見合いに悩まされ続けることになろう。今更ながら政治色を薄めた大東亜共栄圏再興を唱えた、先人の英知が偲ばれるというのはまた別の話か。

 時を同じゅうした訳ではなかろうがトヨタ自動車も政権が変わることとなった。この難局を乗り切るために創業家の威光を活用しようと色めきたった訳ではなく、寧ろ既定路線の交替を早急な業績回復の見込まれないままに当初予定通り強行するか否かの選択だったのだろう。直近の利益で見る限りわが国を代表する様なリーディング・カンパニーが大政奉還とは些かアナクロに映るが、君臨すれども統治せずは極論としても帝国憲法下の天皇機関説が如く効用を、システムを創造した明治期の重臣の如く先達は企図していたのだろう。

1月19日(月) これが貴方の生きる道  -政治・経済 - 経済-

d968.jpg この一年はつくば市に赴いたかと思えば識者に話しを伺い、果た又会社の他の部局と情報交換のためのTV会議なぞ仰々しい場を設けたりと農業における需要と供給のマッチング、より平たく言えば「出来たものをどう売るか、から売れる農産物を如何に作るか」について、素人ながら想い巡らせる機会が多かった。おかげで本日、農業とマーケティングと題する勉強会に参加した際も、如何にも金融サイド発祥の利回り概念主導に陥らることなくこの分野に精通された研究者が存在することには頼もしく映る反面非常に驚きであったが、話しの中身自体は実に共感を抱き得るものだった。
 例えば、実際のモノの流れも金銭の行き交いも流通過程を簡略化、則ち市場や仲卸しといった複層構造を、農家側から言えば削減するのが産業として成立するための鍵であるが、天候要因はじめ工業生産と異なって不確定要素が多過ぎるためリスク分散のためには流通経路の中間において、ともに小規模な生産者と消費者を束ねて規模の経済化させる農協をはじめとするアクターの存在を許容せざるを得ないという結論は我々が得たものと全く同一であった。
 ただ結果として生産者と消費者が互いに顔の見えない=分断された状態に留まっているからこそ農家は数年に一度は訪れることを経験則で知覚している、偶発的な価格の高騰というバブルを日々心待ちに生きているという、甚だ不健全な構造から抜け出せない。これを改めるには生産規模そのものを拡大して効率化を図る一方で例えば東北、関東、近畿といった広範囲に農地を所有し、生産側でリスクを分散するとともに季節的な特性にも対応し農業生産の通年化をより促進するという方策を発見することは決して難しくない。しかしながらたとえ農地の集約が制度的により容認されても恐らくは容易に獲得される、則ち既に耕作放棄されたり現所有者による放出が見込まれる土地の大半は中山間地に他ならず、それでは規模のメリットは期待出来ない。であるからこそワタミの如く流通過程の内製化から農家との直接契約、更には土地を取得しての農業経営そのものへの参画、詰まりは出口である食糧産業における最終消費財としての農業生産物利用を確保した上で、川下から逆流していくのでなければ企業が農業参入しても到底ペイしないし、今後は美容や健康・安全といった概念で生産物に更に付加価値を賦与するのが産業として生き得るかの分水嶺になろうとの分析はよく理解出来た。
 ただ既に高齢化の激しい現在の商業的農業従事者が引退を迎えた後の農地について、農業の多面的機能のひとつとされている保水、景観といった国土保全の観点から、公的機関が初期導入時等に補助金を積んで人為的に後継者を迎え耕作を維持させるよりは、元来わが国農地は林野を開墾して増加させてきたものだから、中山間地を中心に森に返して管理する方が効率的との意見には異論もあろう。確かに農業補償をするよりは経費は少なくて済もうし木材の再産業化等も視野に入れれば、恐らくはWTOとの齟齬から輸出産業への転換には相当な障壁のあろう農業よりも将来展望が描き得るのかも知れない。だが当然ながら農地の削減は食糧自給率、或いは潜在的な食糧自給率とはトレードオフであって、手の掛からないコメからの転換を促すことが現実的なのかという疑念こそあれ、可能な限り耕地の維持に努めるべきではなかろうかとの疑念は残る。こうして突き詰めてみると当面の彌縫策として民主党の農家への個別補償に行き着いて仕舞うとは、自らの発想の貧困を愁うしかないのだが。

1月18日(日) 眼窩の社会  -政治・経済 - 労働問題-

d966.jpg 昨年ウォーターフロントの某党事務局幹部のお宅にお邪魔した際にも痛感したが、昨今の超高層マンションの高付加価値性には目を見張るばかりである。本日も空に聳える黒鉄ならぬ白金の城、絵に描いた様にハイソな友人宅タワーにて学生時代の友人達との恒例の新年会を開催戴いたが、借景も見目麗しき大振りなパーティー・スペースあらば古式ゆかしき和室もあり、果てはゲスト・ルームと至れり尽くせりである。勝手な詮索は控えるべきだろうが受付コンシェルジェ氏の人件費も含めればさぞや高額な共益費かと戦いて仕舞う。或いは世帯が圧倒的に多い分それ程ではないのかも知れないが。
d967.jpg 勿論集う顔触れもこれから教育費の高騰する子育て世代であったり、一方で不況期の就業に想いを馳せる御仁あり、実態は優雅さ一点張りでもないのだが、確かに労働組合の庇護下にあるポジションに属する顔触れは極めて希少である事実に鑑みても、この御時勢に憂世離れした集団の如く眼差しを浴びても文句は言い難かろう。従って土足で上がり込む様な真似に映るのは本意ではないのだが、それでも敢えて某労組のベア4000円には難癖を付けたくなるのは致し方ない。勿論、景気刺激策として個人消費の活性化を図る意義は大きいし、政府の生活対策にも「賃上げ」は銘記されている。物価がデフレから適正規模のインフレに移行したというのも事実だろう。とはいえ雇用確保のためのワークシェアリングまで囁かれ、新卒採用は再び冬の時代へとの暗転色濃い中、果たして時宜を逸していまいかとの印象は拭い切れない。ベアを好況真っ盛りだった昨年の四倍とする合理的な根拠があるならば-恐らくは存在しまたその説明も行ってはいるのだろうが紙面からは伺われない-余程広く口端に伝わるべく旧来に倍して努めなければ、既得権の維持に蒙昧とするに飽き足らず金の亡者に堕したのかと要らぬ批判を仰ぎかねない。例えば生産調整による一次帰休による目減り分を見込んでであるとか、取引先各社への波及効果、少なくとも過去の好況時の積み残しといった合理的なエクスキューズが無ければ、労働者のためではなく連合の構成員のための互助会と、たとえ全労連に糾弾されても申し開きが立たなくなるのではないか。
次のページ

FC2Ad