コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

12月31日(祝) 古い上着よさようなら  -政治・経済 - 労働問題-

 雪達磨製作に身を粉にしながら酷寒に耐えていると、恰も蟹工船とはこんなものだったのかと連想が湧いて来るというのは余りに質の悪い冗句には違いないが、突っ込みのひとつも入れたくなるくらいコミュニズムに翻弄された師走であった。
 勿論、住み処を失った人が日比谷公園に溢れる様な異常事態であるから、共産党としてみれば搔き入れ時というか、この期に真価を発揮出来なければ存在意義を問われるとの切迫感に駆られているのも事実だろう。
 ただ比較的裕福な-中産階級なるバックボーンであるからこそ、左翼的言質に陥る滑稽さを自戒したが故に保守主義に傾倒していった自らの来し方を反芻するに、国会議員が必ずしも党内序列に置いて高位にあるとは限らない同党ではあるものの、草川昭三氏の如く現場からの叩き上げでも、山下元利氏の如く苦学を極めた訳でもなく、華麗なる経歴の末に共産主義者を自認するのは、まさにプロレタリアートの指導者風情と言っては失礼かも知れないが、釈然としない想いが残る。その境地に致る何等かの内面から湧き出る衝動が存在したのか、或いはそうした経験則に裏打ちされることなく人間の理性に基づき行動するのが科学的社会主義であるということなのか。
 誤解を恐れずに述べるならば、こうした苦境においてこそ思いを新たにすべきなのは、際限を知るということではないのか。勿論、英国の如く固定化された階級社会、則ち分を弁え過ぎる慣習が好ましいとは毛頭思わない。ただ一方で滅多に訪れはしないアメリカン・ドリームを恰も誰しもに存在するかの如く擬装する幻想の米国型システムが、情報過多の現代においてなお格差の存在を均衡させている原理は理解出来るものの、際限を自律的に設営し難い世の中にさせているのもまた疑い無い。
 分を知り過ぎることなく、同時に過度の自己主張にも到らない中庸さとは奈辺にあるのか、その思想が著しく両極にあるだけに日本共産党の方々と真に腹を割って話すことが可能ならば何等かの示唆を得られるのではないかとの誘惑に駈られるが、恐らく永遠にその機会は訪れないだろう。

 今年もお世話になりました。来年もどうぞ宜しくお願い致します。

12月30日(火) 天が呼ぶ地が呼ぶ人が呼ぶ  -テレビ・ラジオ - 大河ドラマ-

d822.jpg 大河ドラマが地元の名士を取り上げることによる地域への経済効果は計り知れない大きさがあるのではないか。だとすれば自治体の観光振興課が代理店と組んでそこそこに名のある作家にペーソスに富んだ原作を拵えさせ、「かねつぐというのが居ますが」とNHKに売り込みに行ったりするのだろうか。
 その割には奥床しいのか商魂乏しいのか、兼続饅頭や兼続最中で溢れ返っているかと思いきや、資料館も1月12日オープンとは旧六日町の南魚沼市も悠長である。確かに生家・坂戸城はじめゆかりの地も冬季は殆どクローズドだからやむを得ないのかも知れないが。
 ただ考えてみれば伊達政宗もそうだった様に、江戸時代まで生き残る戦国大名は、秀吉や家康と丁々発止渡り合っていた若き日々がハイライトで結局は天下の取れぬ後半生が尻蕾になるのは読めているし、しかも三成方に就いて会津に転封され、百二十万から三十万石に転落しながらしぶとく生き残るという地味なストーリーだから、役者の年齢からしても前半生の六日町が主たる舞台となるのだろう。であれば折角近隣まで来てひとつ位は史跡に足跡を残しておかなければとの強迫観念を背景に、上杉景勝、直江兼続が幼少期に学んだ雲洞庵を訪れてみたが、「越後一」との看板に偽りなく、足の裏がスキー場以上に底冷えする矢鱈と広い寺院であった。
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「雲洞庵の土踏んだか」、雪中行軍す
 おんな太閤記、利家とまつ、篤姫と並べてみれば女性を主人公としたホームドラマが好視聴率の絶対要件というのは明らかで、この「天地人」もスペシャルの「坂の上の雲」もヒットに至る保障はない。だからと言って戦国期の女性をクローズアップし続けるのでは益々史実との乖離が激しくなりそうだし、昭和期の如く関係者の記憶も生々しい時代はお茶の間向きでないとの禁忌が続くのならば、例えば大正デモクラシー期の原敬と普選運動、更には平塚雷鳥らを絡めてといった野心的試みもまた長期的視野に立てば必要ではないか。実験は「春の波濤」や「琉球の風」で懲り懲りなのだろうが。

 この年末は矢鱈と懐メロ番組が多かった様に感ずるのは自分が懐メロに呼応する世代になったからだろうか。逆算すればまさに我々をターゲットに懐メロ番組が作られているということであり、年末年始に強いTV視聴習慣のある最下限層なのかも知れない。
 しかもレコード大賞は最期のEXILEの大賞まで見ることなく22時には寝て仕舞ったので、5周年特番のレコ大が本当に単なる懐メロ番組になって仕舞った。

12月29日(月) 私は貴方がスキー  -育児 - パパ育児日記。-

d942.jpg 暖冬で雪の存在が危ぶまれた湯沢だが、数日間降り積もった後の、再び変幻激しき山の天候訪れる狭間の僅かな快晴というベスト・コンディションに恵まれ、幾分固めの雪ながら勇躍スキー場に繰り出した。
 しかし考えてみれば毎度の子供用ゲレンデでは、今年初に比して公資が側道の階段を登るのと、祐旭の橇の操作が明らかに上達しているのを除けば大差なく、新たな感慨に乏しい。午後になって漸く祐旭がスキーに再挑戦するが、矢張り玩具の如きプラスチックの板では返って難しいのか、根気を欠く性癖故か、父に似て端から運動の才に瑕疵があるのか、一行に上達が見られないばかりか、スキーという運動競技に楽しさを覚えていない模様である。だからと言って教えようにもこちら側の技量が覚束ないし、お父さんの様に腰が痛くて立てない、足の指が凍傷に掛かった様で捥げそうなどと難癖を付けて忌避していると、大きくなって再びバブルが到来し、猫も杓子もスキーという時代が来たら泣きを見るよと苦言を呈してみてもこの経済時勢では著しく説得力に欠ける。
d943.jpg 運動の類は出来る限りその機会を提供して、当人が自発的に興味を示すのを待つに如かずであろう。ただ惜しむらくはゴルフにしても同様だが、適正を量るために手を染めるだけでもそこそこに金銭負担が大きいことで、なかなか幼少時からクレイ射撃に勢を出したりは出来ないのである。恐らくは今冬中にもう一度は訪れそうだから、今度はレンタルスキーを借りたら果たしてコンサバ祐旭の好奇心を擽るかどうか。昨年も同じことを呟いていた気もするが。

 財界担当広報時代に接点の深かった記者氏の訃報が届く。今にして思えば今年初に関係者が集まった際に久々にお会いしておいて良かった。経団連と日経連の合併騒動の際には水面下で策動され、私も一翼を担わせて戴いた覚えがあり、その意味では往年の財界記者らしく"書かない大記者"的な側面を充分に有していたが、かく人種にありがちな腹黒さよりも行動はフーシェの如くあってもあっけらかんとした陽性が先に立つ好人物であった。年齢的には二回り程離れていながらよく博品館ビルの肉料理店で二人して肉を喰らわせて戴いたことを思い出す。そのバルザックも今は無い。御冥福をお祈り致します

12月27日(土) 平成弐拾年の振り収め  -スポーツ - ゴルフ-

d940.jpg 今月初が最終と思っていたが、暮れも押し迫ってのラウンドが成立した。確かに復調せぬまま年を越すのは悶々とするものではあるが、逆に更に泥沼に嵌まる可能性も考えられるから賭けには違いない。
 して横振りを意識したことと、スタートホールに備え付けられた鏡でスィングを確認したところ左肩が下がり過ぎていたのを修正したためか、このところの不調の要因であったドライバーとウッドが復活したのは喜ばしい。ところがよく出来たもので引き換えに縦振りで固まりつつあったアイアンがボロボロに回帰し、グリーンはほぼ完全に凍っていて跳ね捲り、ラフも殆ど草が無い酷寒の中、苦しいラウンドとは賭けは裏目に出たかと思われたのである。
d948.jpg 更に後半はドライバーも崩れてきて目を覆わんばかりと思いきや、ラス前に来てウッドが右回転が掛かって落ちてからフェードに流れる今日の習性を見込んでツーオンのパー、更に今年の最終ホール・ショートは四階建てになったニアピンを獲得した上でのパーという素晴らしい締め括りとは世の中判らないものである。終わり良ければではないが、丁度月一ペースの12回目にして本年の平均値と同じく109とは作った様な結末であった。

 テクノ・フリークには1981年にYMOがWinter Liveの千秋楽を行ったことで名高い新宿コマ劇場が52年の歴史に幕を降ろすこととなった。
 コマの如き舞台にその由来があるとは寡聞にして知らなかったが、大赤字が続き大証上場の阪急系企業ながら今や梅田や西宮の系列館は全て閉館済みとは儚いものである。年の瀬らしい郷愁を誘うお別れの話題。

12月26日(金) 賀状地獄  -コンピュータ - トラブル-

 道でばったり出会ったよ、という唄があったが、朝会社にまさに入ろうとしたところで呼び止められると、高校時代の同級生であった。大学時代は学年も分かれながら大学横断の巨大なサークル組織で一応の接点はありながら、恐らくは高校卒業後二度目の邂逅である。
 それがこの一瞬の遭遇とは人の巡り合わせとはとは面白いものである。ともあれ唄の如く"両方とも知らん顔で通り過ぎ"なくて良かった。

d939.jpg クリーニングを繰り返しながら騙し騙し刷り続け、漸く約五百枚の賀状印刷の目途が立ったと思ったら、「廃インクパッドが限界」という無情の通達がプリンタの画面に現れた。急遽通信面完了分から宛名印刷に切り替え概ね三分の二は完成したが、到底完パケ迄致るとは思い難い。そこで悩みに悩んでええいばばよとばかりに裏面印刷を再開すると、不思議なことに掃除をしなくてもサクサク印刷出来るではないか。
 そもそも廃インクパッドが溢れてメーカー修理になるのは何年も酷使し続けた結果陥る事態であって、購入して二月で現れるのでは明らかに初期不良の為せる業、繁雑なクリーニングを必要としたために過剰な廃インクが排出されたからに他ならない。それがいざ余命幾許も無くなって破れかぶれになったら初期不良が解消されていたことに気付くとは、丸で地球全体が毒ガスに覆われシェルタにも酸素少なく自暴自棄になった人々が飛び出してみたら何のことは無い、空気は澄んでいたという子供の頃に読んだ小説の世界の如くであった。
 勿論、これで解決した訳では毛頭なく、何時アウトになるか判らない時限爆弾を抱えている様なものである。今更修繕に出しては年内に間に合わないから、急遽妻の実家からプリンタを借りて来てまさに急場を凌ぐこととしたが、案の定というかタイミングよくというか、本日まさに廃インクパッドは満載され、哀れ新興EP-801Aは無用の長物と化したのであった。早速借り物に切り替えフル回転して無事に印刷を終えたのは良かったが、それはそれで三年前の機種と印刷結果に大差無いとは、わざわざ今秋の新作に買い替えまんまとメーカーの罠に嵌まっている己の身の上に世の無常を感じざるを得ない。さてこれから一枚一枚へのコメント添えである。タイム・リミットは近い。

12月25日(木) 笑顔の行方  -テレビ・ラジオ - お笑い/バラエティ 全般-

 最近祐旭は所謂お笑い番組を食い入る様に見詰め、判っているのか訝しんでいると一丁前に受けていることが多い。多くのバラエティに典型的な、三~四組のお笑いコンビ、うち一組は女性を並べてというフォーマットは88年の「夢で逢えたら」以来の定番だが、単にメンバー内の人物が披露した笑いを取るための行動を他のメンバーがフリートークで批評する構成が延々と続き、「夢で逢えたら」にあったネタの作り込み感は皆無である。
 折角に多数「芸人」と称される人物が集っているのだから、漫才・コントとは異なったより自然な芝居の中にボケと突っ込みを散り嵌めさせるかを追求すべきであろう。その渦中に代名詞的な定番の台詞一発ギャグを混在させるからこそ吉本新喜劇は老若男女に愛されるのであって、乳幼児だけに笑われていてはお寒い限りである。
d937.jpg 例えば公資が「わかるかな~」と言いながら問題を出して選択肢にない回答を正答であると解説したり、祐旭を呼ぶのに「にいに、ゆうちゃん、おなじだって」などと一人突っ込みを入れているのは、勿論本人に笑いを取ろうという意識の無い天然ボケに他ならず、文章にして仕舞うと面白みが半減するが、自然な笑いの基本形である。こうしたケースにおいても乳児がかく言動を行うに相応しいシチュエーションを如何に構築するかがお笑いの作り込みであって、言うならばタモリ倶楽部の「空耳アワー」が空耳の内容そのものよりも背景の映像で笑いを紡いでいるのと、構造は異なれど同じ趣旨ではなかろうか。
 フリートークの編集という禁じ手は、芸人諸兄に当意即妙に応答する言語能力を磨かせる効果はあったものの、それだけに反射神経に過敏に訴えかけるものだけを"お笑い"として認識させるべく視聴者をもまた誘導して仕舞った。こうしたお笑いを刷り込まれながら育った世代が生み出すお笑いとは如何なるものになるのだろうか。或いはスピード感に満ちた刺激溢れる創作が生成されるのかも知れないが、より安楽な笑いが蔓延る危険性は否めない。

 夜半に父母が設置したクリスマス・プレゼントを早速祐旭が発見し公資を叩き起こして怪獣ごっこに興じている。祐旭のサンタへの依頼は映画「大決戦★超ウルトラ8兄弟」に出演したギガキマイラ、幾多の怪獣の集合体のため一際巨大で、要望の無かった公資の13cmサイズのウルトラ兄弟と意外にも縮尺がピッタリである。 一昨日もサンタ姿のゾフィと撮影したし、今年はあけましてウルトラマンが"あけましてまるこちゃん"に襲われた替わりに、メリーウルトラマンだったか。

12月24日(水) 巣鴨のメリークリスマス  -政治・経済 - 歴史-

d936.jpg 戦争ドラマと言えば嘗ては圧倒的に敗戦の8月15日近辺の風物詩であったが、昨今は寧ろ開戦の12月が目白押しとなっている。だからと言って「海行かば」的な戦そのものに秘められた美学を描く、まさに戦争体験世代に共感を得るべく作品は製作費の都合からも姿を消し、反戦・厭戦一辺倒の日教組赤丸御推薦でもなく、歴史の検証という冷徹な視点から描くドラマが増えてきたのは兎角お涙頂戴に流れがちなわが国国民性に鑑みるに付け、非常に良い傾向だろう。
 ただそうした観点から考えると、東條英樹という人は確かに先の大戦における主要なキャラクターの一人には違いないが、ドラマの主人公としては極めて扱い辛かったのではないか。多くの人が指摘する通り東條元総理は独裁者には程遠く、責任感が強く天皇陛下の命に忠実な能吏を越える者ではなく、ただ押しなべて過去の栄光が故に冷徹な判断力に欠け勝算高く見通さざるを得なくなったがためにその責を負った帝国陸軍の代名詞に過ぎないというのが一般的な解釈である。だとするとその良質な能吏の部分と子煩悩な家庭人たる姿を繋げれば、98年に津川雅彦氏が主演した映画「プライド」になるが、これはこれで東條氏のおかした功罪の罪の要素が意図的に欠落されているので、色眼鏡で見られること請け合いだろう。
 だからこそ今般のビートたけし氏演ずる東條ドラマを期待していたのだが、国民万般の歴史的事実への認識を前提に作られる中国の三国志映画の如くあった上に、結局は東條が首相兼陸相となっても軍令には直接手を下せないという制約を越えられませんでしたが結論では些か猥小化し過ぎではなかろうか。たけし氏の拘束時間の制約もあったのかも知れないが、これでは東條氏は主人公というよりは狂言回しの如く、或いは単に右往左往するだけの傍観者に過ぎない。
d941.jpg この東條が正鵠を得ているのならば、毒を持って毒を制すと東條を首相に推挙した木戸幸一氏の眼は節穴だったことになる。勿論、東條が意図的に開戦に導いた極悪人という旧来からの解釈に則っても木戸の責任は決して小さくない。実際には昭和天皇陛下の東條への信頼感があったからこそ木戸は東條に賭けたのであって、東條は東條で陛下の命に全身全霊で挑みながらも、開戦を回避出来るだけの統率力は無かったということなのだろうが、そこ迄描き切るのは難しかったのだろう。まずは保坂正康氏の、安易に結論を定式化しないだけに爽快感には欠ける歴史学が生み出した、一定の成果と受け止めたい。

 クリスマスイブに届いた飯島愛氏逝去の報は、境遇としては類想される可愛かずみ氏の訃報-も結構な衝撃を受けたものだが-よりも遥かにショックであった。
 古くは白川和子氏に始まり美保純氏らエロスをデビューの端緒とし、後に性格俳優に転身を遂げたケースは少なくない。確かににっかつロマンポルノとアダルトビデオの社会的地位に微妙な相違は感じられるかも知れないが、飯島氏もまた華麗なるタレント生活を送っていただけに残念な結末であった。
 ただ恐らくはナベプロの方針だったのかも知れないが、過剰な迄に過去を封印したことが徒に心理的な負担を強いたのかも知れない。たとえ作られたものだったとしても、その美貌は未来永劫AV史に残るであろう。御冥福を祈りたい。

12月23日(祝) 終わらない冒険  -テレビ・ラジオ - 特撮ヒーロー-

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 カード連動型TVゲーム企画先行で始まった前作「大怪獣バトル」だが、カードの売れ行きは頗る好調と見え、番組内容そのものへの評価は兎に角度重なる再放送で刷り込みに効あったのだろうか、バンダイ傘下の円谷プロ製作の続編が20日、放映開始された。
 題して「大怪獣バトルNEO=Never Ending Odyssey」とはこれもゲーム後追いだが、親子三人待望の続編には違いなかったからブラウン管の前にいそいそと座ると、公資が「一緒にレイモンを呼ぼうよ、もっと大きな声で、レイモン~」と盛り上がって連呼している。怪獣メインの作品なので本シリーズのヒーロー、レイモンはそう簡単には登場して呉れないのだが、どうやらレイモンの覚醒が作品を貫く主題の様なので、少なくとも前作よりは登場頻度は上がりそうである。一見してCGはじめ明らかに前作より製作費は増大している模様だが、主題歌の唄と作曲が円谷お抱えのウルトラ歌手三人組でなく中西圭三に昇格とは意外な金の費やし方であった。

d935.jpg その、画面でも未だ前作の再放送の最後の数話でしか会えない希少なレイモン生出演とは乳幼児には貴重な誘いに違いないが、同時に父も大いに触手を刺激されているとは毎度のウルトラマン倶楽部も抜かりない。こちらも番組連動で今月の登場ヒーローはレイモン、タイミングよくNEO3に昇格したゲーム機も計六機に増殖しながら大繁盛である。
 かく再三訪れていると、ウルトラ関係者との撮影の儀式の様だし、ゲームに没頭していてはわざわざ一家で遠出した甲斐が無い。ところが僅か四回プレイしただけなのに早速NEO3でウルトラ一族カードと同クラスに珍重される「巨大ヤプール」を獲得したのだから判らないものである。以前にアーマードダークネスを巡ってひと騒動あったが、怪獣の希少カードには縁があるのだろうか。ただNEO3でデフォルトでウルトラマンを応援者として起用(右写真)するに至ったのも、余りにウルトラ・カードが登場せずオークションやまんだらけで高値で取引され過ぎたがためだけとは思い難い。段々と怪獣総進撃からウルトラマンの世界に回帰させ、次たるヒーローを画策するための段取りというのは邪推に過ぎるだろうか。

 風呂で三人、君が代を唄う。このところ公資が積極的だが、今日は祐旭もフルコーラスで参加した。御目出度ふ御座居ます、天皇陛下万歳。

12月22日(月) 矜持と利得  -政治・経済 - 経済-

 会社が儲かろうと儲かるまいと、木枯紋次郎の如くにあっしには関わり合いのないことでござんすと切り捨てられれば痛快かも知れないが、個人的にも賞与が減れば非常に哀しいし、職務柄も無関心という訳にはいかない。
 果たして現下から顧みれば戦線を拡大し過ぎた、ミニバブルに踊ったとの謗りは免れ得ないかも知れないし、結果責任との観点からは異論の余地も無かろうが、それは経営判断として対処の取れる域だったのか、或いは天変地異として埒外に置くべき要素多数と解釈するのが正しい整理であるのかは今はまだ判らない。
 ただこれ迄は好意的に捉えられてきた"裾野が広い"との表現が、不況に陥ると中小企業への波及、雇用への影響と一転して負のスパイラルばかりが強調されるのだから、当面対外折衝役の職としてはこの苦境が真に苦境であることの理解促進に努めなくてはならない。更にはそれに留まらず、社会的存在たる法人としての最大の責務である公租公課、引いては経済活動を通じた消費拡大への寄与を果たせなくなったその渦中において如何なる付随的な配慮、社会的責任の果たし方が存在するのか、広く衆寡の声を集め模索していくことも引き続き必要になろう。

d931.jpg 結局のところは岸信介元首相の仲介でライオンズを引き受けざるを得なくなったが、元来堤家はプロ野球球団経営には消極的で、その替わりでもなかろうが軽井沢という土地柄からもアイスホッケーには並々ならぬ熱情を宿していた。だからこそ野球、サッカーに次いでリーグ戦も成立したし、何よりも西武・コクドの二チームをわざわざ抱えていたのだから空恐ろしい。参画した製紙会社や雪印といった"雪国"の企業も、事実関係はいざ知らず絶えず西武グループからの取引等における恩恵の存在を囁かれ続けてきた。
 その西武・コクドも03年に合併し、この度西武も廃部に至るとは、堤家の家業たる西武から普通の事業会社への移行を象徴していよう。また同時に、社員の結束強化や運動を通じた人材育成という労務対策的側面と、広告宣伝或いは社会貢献たる顔を持つ企業スポーツが不況下において何を目途として生き残りを図るべきかをもまた、示唆している様に見える。

12月21日(日) 短いのがお好き  -グルメ - コーヒー-

 日曜日にも拘わらず所用で永田町近辺を通り掛かると矢鱈とスーツ姿の御仁が多く、丸で平日の如く稼動しているではないか。これは如何にと思い巡らせる暇もなくハタと気付いたのは、予算編成の"まつりごと"の真っ只中故に違いないということである。
 ただ大蔵原案と政府原案のど真ん中に陛下の御誕生日が挟まってからは予算編成の最終過程の簡素化にも拍車が掛かり、遂に今年は確かに財務省に予め決められた糊代の範囲で収めべくるセレモニー化が進んではいたものの、嘗て大蔵省へと勇躍進軍する大臣を業界団体やら関係者が雁首を並べて拍手で送り出していた「大臣折衝」をも先出しして事務的に処理するなど合理性を極めていただけに、例年と比べれば静かな年末風景だったのかも知れない。或いは政府・与党折衝から年明けの通常国会に、その主戦場が移行するであろう前触れを、人々が肌で感じているが故の所産なのだろうか。

d930.jpg この時期は自販機の缶珈琲がホット主体に切り替わり、必ずしも猫舌ではないが大量一気の料飲を好む私には選択肢の狭まる季節である。だからこそ一缶一缶に目を凝らしたがために発覚したのだろうか、過日小倉で見たサントリーBOSSが何となく短く感ずるのである。比較してみれば明々白々で、確かに缶珈琲の中にはデミタスやエスプレッソといった高級感を醸し出すことにより概ね130円たる高額設定を可能にしている一群があり、それ等はチビ缶170gが一般的であるが、通常版190gと同一パッケージ・同内容で短いだけのバージョンは初見であった。
 単純計算してこれを100円とすれば叩き売りだが110円なら利潤が増加する算段になる。思えばほんの10年位前までは缶珈琲も他の清涼飲料同様に250gロング缶が主流であった訳だから、西日本を先兵として徐々に20g減量が進行しても決して不思議ではないし、今不況は寧ろその傾向に拍車をかけるのかも知れない。
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