コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

6月30日(土) ブルースの行方  -政治・経済 - 環境・資源・エネルギー-

d187.jpg わが国では戦後間もない1948年から51年にかけてサマータイムを導入した実績がある。しかしながらその際の混乱の記憶がトラウマとなり、省エネや余暇の拡大との観点から再三復活の声が上がりながらも見送られ続けてきた。とはいえこればかりは特区で試す訳にもいくまいと思っていたら、旗振り役の日本経団連が自ら試験的な導入を行うというから驚きである。
 9時半~17時の就業時間を1時間繰り上げるとは、そもそも常態が昼食休憩を除くと8時間労働に満たないのではないかとの疑問はさておき、容易に想像されるのは企業城下町の如く号令一喝周囲を睥睨させて仕舞う環境にない限り、単一の法人のみが時間軸をズラすのは労働時間の長期化に親和的というサマータイムへの最大の批判に合致する効果をもたらすであろう懸念である。
 ただ夏の経団連は7月末の東富士セミナーを最期に夏休みと言っては語弊があるが冬眠よろしく活動停滞期に入るので実質的な影響は小さく、旗振り役としてまず隗より始めよとデモンストレーションを意図してのことだろう。何はともあれ環境負荷の軽減や労働時間の変位のみならず体感した便益、不首尾をよくよく分析して後衛の考に供して欲しい。個人的には独仏をTEEヨーロッパ特急で移動した際、パリ駅でサマータイムのおかげで降り遅れそうになった経験があるからでもないが甚だ懐疑的なのだが。

6月29日(金) 国民国家  -政治・経済 - 参院選-

d183.jpg わが国国籍法は属人主義の考え方に立つので父親が日本国籍を有していればその子は自動的に日本人となる。しかしながら当該人物が属地主義を取る国家、例えば米国で生を受ければ自動的に米国籍も取得することになるので、必然として二重国籍状態が発生する。ただ85年に改正された現行国籍法は成人に達した2年後、即ち22歳までに何れかの国籍を選択することが義務付けられているため、例えば現時点で野球の五輪日本代表に選抜されているダルビッシュ有投手は86年8月生なので、わが国チームの一員として北京五輪に出場するにはイラン国籍を棄てなければならないことになる。因みにプロ野球選手としては本邦学校の在籍年数要件が優先されるため、例えイラン国籍を選択したとしても同投手は外国人登録の対象となることはない。
 わざわざダルビュッシュ投手の例まで引いたのは国際競技における国籍条項の危うさを指摘したかったからでは当然なく、フジモリ元ペルー大統領の参院選出馬が伝えられたからに他ならない。わが国はとくに二重国籍には非寛容的で、日本国民が他国に在住するに当たり当該国の国籍を持たないが為に手続き等において不利な扱いを受けながらも、わが国国籍を便宜的に棄てることを良しとせず、その状態を甘受せざるを得ないケースも多い。にも拘らず南米諸国における日系移民とそれに連なる二世・三世については諸般の事情を考慮して事実上、二重国籍を許容してきたと好意的に解釈したとしても、ペルー国籍を有していることが明らかなフジモリ氏が、旧国籍法下において合法的に日本国籍をも取得しているとの解釈は非常な無理を孕んではいまいか。事態はフジモリ氏ひとりに留まらず、引いてはまたぞろ永住外国人の地方参政権付与問題の再燃まで発展しかねない。人道的な亡命の受け入れの可否は別として、たとえペルー国民であり同時に日本国民であることを許容するとしても、公人としての活動は自ずから何等かの制約を受けて然るべきなのではないか。

d184.jpg 昼にはパーティーで鯨カレーを頂戴した。私の世代だとまだ給食で鯨の竜田揚げが出たクチだが、久々に食した調査捕鯨による鯨肉は矢張り幾分ニチャっとした、若干の違和感こそ棄て切れないが、存外に美味であった。
 捕鯨問題に付いて明るくないので多くは述べられないが、第一感でわが国としては鯨を捕獲したいという欲求以前の問題として、鯨を食すという文化そのものを否定されることに耐え難い苦痛を感ずるのではないだろうか。国際捕鯨委員会の脱退も視野に、と聞くと松岡洋右の如くではあるが、国際交渉において強靭な姿勢を示す機会もあっていい。

6月28日(木) 文字も言霊  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

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 お手伝い中の団塊世代に関する取りまとめが一段落を見た。セコンドのポジションで関与させて貰ったので茶々を入れ易い割には責任に乏しい楽な職務だったが、終盤に至って予想外に議員と膝を突き合わせてペーパーの中身をやり取りする機会が得られ、新たな発見という程ではないが、改めて痛感する出来事があった。
 議論したのは主に文言を巡る修文だが、感心したのは各議員の主張を巧みに配合すべく努めるのは元より、リズムや語感の響き、新奇性も考慮した上で如何にキャッチーな物言いをするかに各人とも尋常でなく拘りを見せたことであった。それは既に発表を間近に控えてであるから当然の調整であり、中身そのものより表明上の繕いに労力を注ぎ過ぎだと揶揄する積もりは毛頭ない。寧ろ職業能力開発の際もそうだったが、幾多の提言が排出される中、多分に煽情的であるべきか、判り易さを追求するかという方向性の差異こそあれ、単に煌びやかであるのみならず、国民有権者に端的に訴えかける訴求力という観点から、言葉遣いに極めて鋭敏という事実である。
 おかげで最期の細かな調整にも預かる羽目には陥ったが、一言一句を出来るだけまっさらな目で見直し、少しでも受け手に響くべく修整を重ねる姿には正直に感銘を受けた。軽い気持ちで名乗りを挙げた割に良き鍛錬に遭遇したと言えよう。何事も首を突っ込んでみるべきという教訓か。

 宮澤喜一元総理が亡くなった。享年87。宮澤氏と言えば英語の巧みさのみならず米国通というのが通り相場だが、氏の思想を貫くのは寧ろ後藤田正晴氏にも通ずる「世代」の為せる業ではなかったか。
 氏が護憲、就中第九条非改定論者であったのはよく知られるところである。それは氏自身が再三述べておられる通り権力の行使に極めて自制的という姿勢が、米国通であるが故の戦後世代のアプリオリな米国礼賛に懐疑的な想いと相俟って、わが国には第九条という「たがを嵌める」べきとの結論となって現れたのであろう。しかしながら権力の行使に自制的であったことは同時に、第一級の政治思想の持ち主でありながら、同世代の中曽根元総理に比して、行政の指揮官としては歴史にその名を残し得る業績を挙げることが叶わなかったという評価に繋がるのかも知れない。
 その宮澤氏が、まさに改憲が現実の視野に入ってきた現下において、静かに舞台を去られたことは非常に象徴的でもある。我々はその氏の想いを十二分に踏まえた上で、その「たが」を乗り越えていかなくてはならぬ使命を帯びているのではないか。

6月26日(火) Let's Spend The Night Together  -就職・お仕事 - 夜の仕事-

d180.jpg 夜のお仕事と言うと怪しい、若しくは多分に淫靡な雰囲気が漂うが、現に企業人となって幾年、夜の方が忙しいと嘆くほどにバブル期を謳歌は出来なかったが、アフターファイブに活動しなければ仕事にならない仕事を好んで続けたきたというのは事実に他ならない。
 わが国特有とまでは断定出来ないものの、多分に日本国を象徴しているであろう接待文化も、夜のお勤めを忌避する層が増えたためもあろうが、より根源的には所謂"失われた10年"を経て企業側の財布の紐が引き締まり、景気の回復基調が明らかになっても二度と再び嘗ての如くには緩まぬであろうことは容易に想像が付くために、着実に衰えを見せている。かく言う私も決して饗応が得意な質ではないが、それはそれとして応分の役得には預かっているのだから、額に汗して企業が培った利益を消費拡大に気前よく散在しているという罪悪感こそあれ、文句を言う筋合いにないのは論を待たない。
 ただ改めて確認するまでもないが、接待で重要なポイントはと問われれば、ひとつには如何に宴席らしい雰囲気を醸成するかであろう。嘗て企業の接待用施設で従業員であるホステス、という呼称に語弊があれば女給さん方に、盛り上げ方が足りないと駄目出しされた経験を持つ私には身に余る役回りであるが、それはそれなりに努めを果たさなくてはならないのは社用族である以上、当然の責務である。
 更にその前段として店の選定がある。求められるべく条件は①場所の秘匿性、②個室や座敷の有無、鰻の寝床にならない配置といった店の構造、③格式、料理の味、価格等の通常の料理店における判断材料、であろう。となれば安易な選択としては企業の接待用施設に流れがちだが、席に限りがあるし、毎度同じという訳にもいかなければ他の持ち駒が要求される。
 こういう事態に備え、少々無理を押しても席を用意して呉れそうな"行き着け"を拵えておくことも必須である。が同時に、得てして似た様な面子と不定期に杯を重ねることの少なくない身の上としては、会場に関する薀蓄だけで冒頭の30分は持たせられそうな隠し球を用意することも肝要だろう。
 今日は一次会が青山の、前を通り掛るだけでは見過ごしそうながら三階に上がると十数人用の個室が現れる和食の店、転じて二次会は一見普通のカウンターバーながら奥に入るとこれも個室で、忍者屋敷のどんでん返しの如くに回転してカラオケ・ステージが現れる銀座の飲み屋と、充分に話題性溢れる取り揃えで感服させられた。結局のところ人に聞いたり雑誌を漁ったりしながら探索を欠かさず、一度行った店はマメに記憶しておく他に特効薬はないのだろう。

6月24日(日) ワシハシンゲンジャ  -テレビ・ラジオ - 風林火山-

d179.jpg 毎週欠かさずチャンネルを合わせる程の大河フリークではないが、子役時代のほのぼのとしたエビソードを終え、国盗りの佳境に差し掛かる時分になるとBSの時間差や翌週土曜の再放送も駆使して拾い見すべく努めている。
 しかしながら今年は主役の内野聖陽氏の登場が早いばかりでなく、民放も合わせれば"今日は難波の大阪天下取り、明日は筵で腹を切る"と揶揄されても仕方ない程にお馴染みの顔触れか、妙に髷の据わりの悪いアイドルスター夢の競演がお定まりだった近年の大河には珍しく、非常に個性的な配役が組まれている。取り分け信玄役の市川亀治郎氏は、かの「遠山の金さん捕物帳」で名高い中村梅之助氏の子息であり、如何にもNHKの好みそうな人選ではあるが、このところ一国の将たる威厳を出そうとし過ぎて少々年寄り臭い演技が鼻に付くとはいえ、歌舞伎役者らしく「ワシハシンゲンジャ」と鼻骨を震わせながら甲高く放つ台詞の響きが時代掛かった文字通りの時代劇風情を醸し出している。
 惜しむらくは趣味の乗馬が昂じて抜擢されたGACKT氏の謙信がエロイムエッサイムの天草四郎もどきで明らかに場にそぐわないというか相当に意表を付いているのを除けば、総じて演技力重視なのだろう、必ずしも知名度に豊かでない役者が多く、非常に地味でこれはこれで誰が誰だか判然としないことだろうか。しかも「おんな太閤記」に端を発し、「利家とまつ」や「巧名が辻」に顕著なホームドラマ、メロドラマ路線への反省なのか、女性の出演者が非常に少ないのも彩りの無さに拍車を掛けている。
 全体としてはよく出来たドラマであり視聴率も健闘している様なので、後は主役・山本勘介の思想信条がもう少し伝わり易くなれば、より視聴層に広がりを持たせ得るのではないだろうか。そもそもが判り難い人物の物語であり、衆寡の心を鷲掴みにする様な主人公の選択肢はもう大河には残されていないと言われれば、その通りなのだが。

6月23日(土) サイクリング・ブギ  -育児 - パパ育児日記。-

d178.jpg 概ね一年弱前に杉並児童交通公園を訪れた際の映像には、恰もそのまま疾風迅雷駆け抜けて行きそうな、祐旭の堂々たる自転車小僧振りが残されているが、現実にはサドルに跨るのがやっとでペダルを漕ぐには全く至らなかった。それは2歳児においてはやむを得ない過程だったのかも知れないが、驚いたのは今般、間もなく4歳を迎えようとする現下においても事態は一向に変化を見せていなかったことである。
 父も母も、そのスポーツ歴を振り返るまでもなく、一向に改善しないゴルフのスコアにも明らけく、お世辞にも運動神経に優れているとは言い難い。勿論遺伝により受け継いだ才能に秀でなかったとしても、幼児期から運動に馴染ませることによりある程度の代償は可能であろう。しかしながら三輪車や自転車の類に居を据えれば前方に進むべく左右の足を押し出すという行為は、動物としての運動本能、言うなれば長嶋茂雄氏の野生の感の如く、自然の摂理の為せる業ではないのか。父の疑問を余所に祐旭は程なく自転車を棄て、二人乗りゴーカートに搭乗しようと頻りに懇願してくる。これならば足漕ぎは父の所管なので楽であることこの上ない。これでは行く末は古き良き三文SF小説に定番の、須らく行動が自動化され筋肉が退化し脳だけが発展した火星人風の未来人の姿が、容易に脳裏に浮かんできて仕舞う。
 ところが妻のアドバイスで三歳児以下様の周回コースから、園内全域を用いたサイクリング・ロードに舞台を移すと事態は一変した。確かに空回りすること未だ多く、単独で操縦するのは難しいが、少しずつ足は前方へ前方へと踏み出されているのである。実はこちらは4歳以上が対象で、記入欄に偽って補助輪付自転車の貸与を受けたのだが、上背が3歳児としては大きい方なので、乳幼児向けでは足が余って旨く漕ぎ出せなかったらしい。本人も味をしめ漸く自転車への興味も湧いてきた様なので、充分な成果があったのではなかろうか。運動の達人になれとは言わないが、幼少時よりスポーツに昵懇となるべく努め、父のゴルフの如くスタートラインに並ぶまでに非常な困難を覚える事態に陥らない様、拳拳服膺して欲しい。

d185.jpg 公資が1歳を超えそろそろ明確に人見知りをする様になってきた。必然的に母に対する後追い行為も激しくなってくる。不思議と言うべきか、当然予想された行動パターンなのか、これに感化され祐旭も先祖返りして、一時沙汰止みになっていて母親への憧憬が非常に強まってきた。
 こうなると父は無力だが、無理に引き離したりせず時の流れに委ねるのが健全な見守り方なのだろう。父の存在価値が問われている様で一寸寂しいには違いないのだが。

6月22日(金) 昔全逓、今JPU  -政治・経済 - 労働問題-

d176.jpg 旧全逓のJPUと全郵政の統合が決まり、秋には22万人を有するわが国最大の民間労組が誕生するという。全逓と言えば田辺誠元日本社会党委員長や'国会の止め男'こと大出俊氏らの出身母体たる旧総評の雄であり、全郵政はその左傾路線に対峙する旧同盟系=民社党の支持団体に他ならない。未だ国労・動労・鉄労からJR総連/連合といった幾多の捻れ、企業内複数労組が残存する産業も見られる中、長年に亘り実力行使を含む激しい対立を続けた両者の一体化が図られるというニュースには隔世の感を覚えざるを得ない。
 今後も経済成長の見込まれる第三次以降の産業分野においては正社員比率の低下も反映して労組による組織率の低下が著しい一方で、IMF-JC傘下の各団体に顕著に見られる様に、古式ゆかしい所謂重厚長大型産業はバーゲニング・パワーの確保を意図した数の論理に導かれ、単組から産別へと活動主体の転換を余儀なくされている。恐らく郵政民営化を経た新全逓の誕生も、労働組合という名の先鋭的集団が、労使協調を基盤にルールに則って条件闘争を行う利益集団のひとつに収束していく過程の一結露なのだろう。

d177.jpg 私の所属する組織は企業派遣者による美しく言えば英知の結集、またある時は寄せ集め集団なので、各人の異動交替時期はバラバラで、結果的に巧みな活動の継承か図られている。
 ただ基本契約2年に対して1年内外のオプション追加もあれば短縮のケースもある。従って、私の如く3年目を迎えると後から来た人を見送るという事態も発生する。勿論そこには黄門様曰く「後から来たのに追い越され」という焦燥感も無きに如もあらずだが、そこはかとない無常観にも包まれる。
 以前、若い坊主は有り難みに欠けると指摘したところ、それは当然であって若い頃から檀家として接してきた人々が時を経るに連れ一人また一人と墓に入っていく、「あの人も逝ったか」と達観させる経験を蓄積することによって、お坊さんとしての味、というか他者を睥睨させ得る僧侶らしさが身に付くのだと切り替えされたことがあった。何となくそんなお坊さんの心境が少し判った気がした。

6月21日(木) 画面仕掛けのスウィング  -スポーツ - ゴルフ-

d174.jpg このところ自転車の効用でラウンドがなければ練習とほぼ毎週末クラブを握っているが、二日連続ラウンドが与えた足腰への微妙な負荷も覚めやらぬまま、深夜に汗を流す事態に陥ろうとは夢想だにしなかった。都会の喧騒のなかスーツ姿のまま深夜に黙々とスウィングに励む男達、それは24時間営業のナイター練習場でもなければ、自宅でマット相手にパッティングに勤しむ勤勉なトップアマでもない。赤坂に忽然と現れたサラリーマンのオアシス、ゴルフバーGLIPである。
 実際のコースを模した画面に向かって打ち、クラブの入射角と出玉の回転で距離と方向性を判断するシステム自体は既に多くのインドア練習場等で実用されている。詰まりこのゴルフバーの味噌は飲み食いをしながら正に遊戯として、4人一組でラウンドするところにあり、従前のプールバーやダーツバーの延長線上にある存在と言えよう。
 実際3ブースあるが非常に繁盛しており、1時間近く待った上でのプレー開始となったが、既にアルコールが入っているところに飲みながらのラウンドなので、考えてみれば私は実際のコースでも概ねそうだが、非常に酔いが回る。ただ画面下の溝に押し込んでいくことになるパッティングや、砂が地下から湧き出てくる訳ではないバンカーにこそ違和感は隠せないが、存外にショットは正確に反映されており、酒の肴としては充分に楽しめる。残念だったのは「飛び過ぎるので2番手程落として下さい」と注釈を貰いながら、現に打ってみるとナイスショットでも届かず、ここでも飛距離の無さを痛感させられたことだろう。ゴルフは飛距離ではないとはパワー不足のゴルファーに向けられた有り難いお達し、或いは気休めであるが、実態としては飛距離"だけ"ではないと言うのが正鵠を得ているのではないか。

6月20日(水) 夜毎の水道  -政治・経済 - 選挙-

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 歩道が膨らんで喜んでいたら今度は水道管の移設とやらで夜毎工事が繰り広げられている。勿論事前に「ご迷惑おかけします」の類の張り紙がマンション1階には掲示されているが、ドリルでコンクリートに穴を空け続けているので尋常でなく五月蝿い。しかもこの酷暑で窓を閉じれば必然的に冷房料金も嵩むと悪循環である。想うところは皆同じの様でとくに子持ち家庭から苦情が殺到し、管理人氏から申し入れたところその効果なのか、或いは単に巨大な騒音を醸し出さぬ工程に移行したからか、数日して音量は下がったが、遮断してもなお遠く振動が木霊している事態に替わりはない。
 こうした事態に直面した時、市民運動家であったなら如何なる手段に訴えるのであろうか。いきなり現場に怒鳴り込む人もあろうが、もう少しソフィスティケートするならば役所の担当課に話を持ち込むか、その際に議員であるとか亘りの付け方を勘考しよう。雑駁とした感想に過ぎないが、嘗ては任侠の世界にも通ずる街の顔役が務めていたポジションを、地方議員以外で、増してや公権力に楯突く行為そのものを無上の喜びと感ずる職業左傾団体に堕すことなく担う"新しい「公」"、街のロビイストとも言うべき存在は成立し得ないものだろうか。

d175.jpg 国会の会期延長、これに伴う参院選の当初予定から一週間の後出しが本決まりになってきた。
 参議院通常選挙は1986年までは6月末乃至は7月初が通例だったが、89年にリクルート事件等で大幅に予算成立が遅れ、交替した宇野内閣は選挙先送りの思惑も持ちつつ会期の大幅延長に踏み切ったので、公職選挙法32条2項「通常選挙を行うべき期間が参議院開会中又は参議院閉会の日から30日以内にかかる場合においては、通常選挙は参議院閉会の日から31日以後35日以内に行う」に基づき初めて7月後半(23日)に行われた。[注:平成9年に「23日以内にかかる場合~閉会の日から24日以後30日以内」に改正]
 一度遅れれば同1項の「参議院議員の通常選挙は、議員の任期が終る日の前30日以内に行う」が存在するために次回以降も連動して遅くなるが、更に92年以降は通常国会が年末から1月後半召集に改められたため、開会の早かった98、04年を除き、7月後半が定着している。
 と技術的な解説を続けたが、そもそも一昨年の衆院大勝の反動を考慮すれば自民退潮ムードに包まれるなか、再三指摘されているのは会期延長後の選挙となった89年、98年の両回が自民大敗であったというジンクスだろう。しかしながら既に述べた様に98年は開会が1月10日と異例の速さだったため延長してなお7月12日投票であるから、必ずしも89年との一致点は見出し難い。寧ろ92年以降では7月第二日曜に行った98、04年が負け、第四若しくは第五日曜に行った92、95、01年は勝利乃至はトントンで少なくとも大きな被害は被っていない。夏休みに入り投票率が下がるという思惑であれば寂しいが、小泉ブームの01年は今回同様の29日かつ50%台後半ながら大勝しており、その例に肖りたいという願望もあろう。吉と出るか凶と出るか、何れにしろ賭けには違いないが。

6月19日(火) いっこく堂  -テレビ・ラジオ - アナウンサー・キャスター-

 珍しく会社の飲み会に出席する。通例では若かりし頃は同じ年に同一集団に属したメンバーでの会合が催されるものだがその時分は物理的にも接点が少なかったし、程なく夜は対外的な宴席に費やす職責と化したので、毎度席を同じくした上で更に新橋あたりで憂さを晴らそうという行動パターンには至らなかったがために、歓送迎会の類に職責上連なる以外に、サラリーマンらしい飲食を経験する機会に滅多と預からなかった。
 しかもこの年になってくるとそろそろ中堅どころで年少者の話に耳を傾ける身分になりそうなものだが、仕事柄年長者の多いセクションで、未だ下から数えて何番目の域なので、本来求められる役回りは依然盛り上げ役である。しかしながらそちらは通常の対外的な宴席でお努めを果たしているのだから儀礼程度で良かろうと形を潜めていると、出向者として日々の企業活動からも遊離しているので会話も弾み難く、微妙な距離感のままお開きに至る。これなら少々話題に詰まっても無理して喋りつづけならない責務を負った対外的な宴席の方が余程精神的に楽というか、存在意義が認められよう。企業というコミュティは難しい。

 渋谷でSPAが爆発した。それ自体も怖い話だが、恐れ入ったのは報道ステーションの報道振りである。簡易なミスを連発して珍しく古館キャスターが頭を下げたことも特筆すべきではあろうが、耳を疑ったのは当の古館氏がわざわ現場に赴いてのリポートの第一声であった。
 確かに誰しもこの場面で気の利いたコメントをしろと言われて当意即妙なフレーズが浮かんでくるとは思い難い。しかしながら「行き交う人々はそれぞれの道を歩んでいます」といきなり告げられても、確かに否定する謂れはないが、同時に何等の事実をも伝えていない。報道機関が詩人になる必要はないにも拘らず、考えてみれば以前にも現地リポートを行った若手アナウンサーが同様のコメントを発していた光景が蘇る。
 詰まり再三指摘されていることだが、恐らく報道ステーションにはTV朝日の製作或いは報道部局によるライターが存在し、古館氏はじめ出演者はそれを恰も自らが語り掛けているが如く立ち回る演者に過ぎないのではないか。それは久米宏氏とオフィス・トゥー・ワン主体で局自体の主導権が発揮出来なかった前番組「ニュースステーション」への反省、乃至は反動の為せる業であろう。であれば女性キャスターが頭を下げても何故古館氏は謝らないかとの指弾に対しても、謝罪の度合いに応じてその役回りがシナリオに拠って決定されていると思えば合点がいく。
 にも拘らずこの番組の視聴率は決して低くない。それは久米氏による意図的な"偏向"に視聴者が飽きる一方で、TV朝日の製作意図がポピュリズムとして成果を挙げているからだろうか。果た又寧ろ、立て板に水の如く軽やかに流れる言語が脳裏に滞留しないからこそ、現代の視聴者の選好に合致しているのか。望むべくはNHKの夜のニュースに22時台に復帰して欲しい。
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