コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

5月29日(火) 南の島のおさとうは  -政治・経済 - 環境・資源・エネルギー-

d145.jpgd146.jpg
伯に比べ省スペース・近代化が進んでいるが
外見の焼酎工場風情は替わりない/
エタノール100%稼動のバイク
 昨年ブラジルを訪れ俄かエタノール通を装う様になってから何れ視察の機会をと狙いを定めてはいたが、まさか実現の運びに至るとは予想だにしなかった。沖縄本島と台湾島がほぼ等距離に位置する先島諸島の北端・宮古島は尖閣諸島も目と鼻の先にある。
 ところがやしの木の立ち並ぶリゾート・ムード満載の南洋の地を想い描いていだたけに、前夜到着すると余りの何も無さに仰天す。繁華街と言っても殆ど裏道に店が点在するだけだし、TAXI初乗りは驚く莫れ390円である。一夜明け改めてバイオエタノール生産事業現場を尋ねてよく判ったのは、同じ先島であっても初日に食べた石垣牛をはじめ、土壌にも観光資源にも恵まれた石垣に対し、宮古はサトウキビ農業が島内総生産の1/4を占め、この10倍の関税に保護された国際競争力のないサトウキビに島経済の舵を委ねざるを得ない、過酷な経済環境に晒されているということである。
 従ってご説明賜ったりゅうせきの方も、「ここまでは前段で」という時点で既に1時間を経過して時計と睨めっこせざるを得なくはなったが、エタノールそのものもかく燃費よく燃え上がってほしいと思うほど熱く語って戴いたのだった。曰く、サトウキビはとうもろこし、況やセルロース等の他の原料に比べ、遥かに高いエネルギー効率を有す。曰く、わが国エタノール精製技術は、米伯を凌駕しており、取り分け濃縮技術は著しい省行程、省スペース化を実現している。曰く、本島のゆいレール以外に鉄道・軌道を有せず、CO2排出の極端に高い沖縄県の特性を踏まえ、環境負荷の低減と農業振興の双方に資するプロジェクトであると。
 勿論それは紛れもない事実である。ただサトウキビ生産能力に鑑みれば、島保有自動車2万台を現行のE3(エタノール3%含有ガソリン)からE10まで引き上げることは物理的に可能であっても、それを本土は元より沖縄県内へ移出することも現実には想定し難い。いみじくも説明で述べられた様に「エタノールは化石燃料の補完」を実現出来るのも島内までなのである。
 結果的に本プロジェクトの意義は、まず地域産のサトウキビを以てエタノールを生産し、それを地域のエネルギー消費に充てるという「地産地消」のあり方を示すとともに、宮古島で培った技術や実証実験の結果を発信し、離島の生き残りのためのひとつの方策、宮古島そのものの存在価値を世にアピールすることに最大の眼目があるのではなかろうか。

d147.jpg 残る課題は決して少なくない。少しでも経済効率を高めるために本業の製糖や、バガス(搾りかす)燃焼による発電、廃液の飼料・液肥化等との事業連携によるスケール・メリットを如何に追求するかがまず生産段階にて挙げられる。
 或いは流通段階ではより根源的なお題になるが、首都圏の実証事業で行われているバイオガソリン(ETBE混入)とE3(エタノール直入=宮古島方式)の是非もあろう。またエタノールの燃費がガソリンの約6割であることに鑑みれば、現行の同価設定から価格帯を下げるべきか、或いは独の如く環境負荷の削減コストは消費者負担と割り切るのかも大きな検討課題である。
 そして本当に国内全域への一定量のエタノール混入を目指すのならば、わが国技術を活用した海外における大量生産に踏み切らなければ、化石燃料の過度の中東依存脱却に始まったエタノール礼賛が、単にブラジル詣でに置き換わるだけに終わってしまおう。宮古島の最大の役割は、そのための技術の蓄積であり、それを宮古島の名とともに世界に発信していくことである。

d148.jpgd149.jpg
初日に購入したかりゆしを着て/宮古・池間を結ぶ池間大橋
 印象的だったのは時間に対する観念で、万国津梁館で16:30の閲覧時間を過ぎていたにも拘らず全く支障なく入館出来たことなど序の口で、ここ宮古島では大袈裟でなく凡ゆる自動車が制限時間一杯はっけよいのこった、ではなく制限速度一杯で走っている。勿論、この島に渋滞など存在しないから急速移動が可能かと思いきや、一車線なので前に車がいるか否かによって極端な影響を被るのである。狭い島内そんなに急いで何処行くの、ということなのだろう。
 午後は砂山ビーチ(上写真)にてサンゴ礁の海に戯れる。5年前の訪沖が軍事とリゾートと城、だったのに対し今回は城がお砂糖に置き換わった形だが、海に入らず浜で水遊びするのみだったので、暑くてとても長居出来る環境ではなかったとはいえ、旅の最期に至ってのリゾート・モード全開は、東京から遥か2000kmの南の島にやって来たのだという想いを強くする。7年も前、奄美に赴いた際も思ったが、恐らく再びこの地を踏むことはまずないだろう。その足で池間島に北上し、旅路を追えた。

 思えば梅雨の真っ盛りにも拘らず、我々が到着した初日の午後に雨は上がり、最終日に乗り継ぎのために降り立った那覇空港で再び雨が滴り落ちはじめるという類稀なる幸運に見舞われ、後続部隊が到着した二日目は全日空のシステムトラブルであと1時間遅ければ欠航もという事態の中、1時間遅れで当初の行程を何等の支障なく完遂出来た。
 実に楽しい旅であった。今後ともかくあらんと願いたい。

5月28日(月) 国防の鍵  -地域情報 - 沖縄-

 既に疲労感が漂い始めているが三日目にして漸くここからが視察本番、いきなり朝一番から再び南下し空港に戻るとは効率が悪い。ところが那覇空港と滑走路を共有しながら別施設とはこは如何に。今回も威風堂々門を潜ったのは航空自衛隊那覇基地であった。
02/10/29-31富士学校体験入隊参考
06/2/28鹿屋基地(P-3C)参考
06/7/30海保第七管区(視船きくち)参考
06/8/24富士火力大演習参考
06/10/10千歳基地(政府専用機)参考
06/10/27観艦式参考
 右表にある通り頓に昨年から視察と言えば防衛省・自衛隊尽いているが、元より我々は軍事評論家のアトリエでもなければ安保フリークの集いでもない。折角政権政党に身を寄せているのだからこのボジションでなければ目に出来ないモノをと食指を伸ばせば必ず軍事に辿り着くのである。
d140.jpg しかし概要説明に先立つ雑談の中で、先方はわが方が先年千歳基地を訪れたことも先刻承知であるとさり気無く告げられ、わが国インテリジェンス網の豊饒を思い知らされる。とは大裟だが、凡ゆる十字路には歩哨が立ち、扉を開けるだけで警報が鳴り響くアラート状態の詰所においては8人の屈強な若人に直立不動で迎えられるとは恐縮至極に他ならない。更に格納庫に足を踏み入れた我々を迎えるのは堂々たる体躯の戦闘機、F4-EJ改ファントムであった。P-3Cの際もそうだったが、搭載されたAAM-3に触れたりしながら説明を受けていると矢張り臨場感が違う。この後、恐らくは破壊する迄の戦術的価値も無かったのだろう、基地内に唯一残された旧海軍砲台跡に登って第一部は終了す。
 沖縄は改めて述べる迄もなく先の大戦の激戦地であり、かつ現在においても軍事戦略上の要所であり続けるが故に、わが国においても特段自衛隊に対する機微が異なる中、那覇基地は全国唯一の陸海空三軍がパッケージとして駐屯する稀有な存在として、地域への理解活動の占める比重は格段に大きい。加えてわが国単独では完結し得ないが故にその障壁は倍加されている。

d141.jpg
嘉数高台より普天間飛行場を臨む
d142.jpg
解説戴き恐縮(嘉手納)
 そこで後段は日米安保の実相へと舞台を移す。那覇基地を後に、管轄は空自から防衛施設庁に引き継がれた。そもそも当初のわが方の要望は米軍基地の探訪で、現に我々の先達はそれを成し遂げているのだが、9.11以来著しく部外者の立ち入りが制限されており、編み出された智恵が代表的な基地をそれぞれ一般施設から遠望するプランであった。
 最初に訪れたのは嘉数高台というマニアックな戦跡で、かの二○三高地にも匹敵する激戦の地との解説文には幾分誇大広告の趣無きにしもあらずだったが、高台の上に展望搭が設けられ普天間飛行場が一望出来る。確かにるるぶには決して掲載されないスポットでここに至るだけでも充分隠密行動めいているが、何より驚いたのは到着すると先導車とは別にバネルを抱えた説明隊の方々が待機していたことで、この後行く先々も同様であったのには又もや恐縮の極みであった。
d143.jpg
役目を終えた?「安保の丘」
 続く見物所は道の駅嘉手納、国道を挟んで嘉手納飛行場に隣接しており正に基地を見る為に設けたのだろうが、よく見ると眼下には見覚えのある階段が存在している。あれは5年前、案内板もなく迷った揚句に辿り着いた「安保の見える丘」ではなかったか。確認すると確かに道の駅は設立4年という。道理で往時は苦労した訳だが、準公的な展望所を設営し僅かな一歩であってもオープン化に努めるのは彼我双方にとっても望ましいだろう。

 
d144.jpg
奥の小島を軸に当初のフロート案は検討されていた(辺野古)
 普天間~嘉手納間も両側に米軍施設が続き"基地の街"を痛感させられたが、更に北西に進路を取る間に今度は左右に鬱蒼とした森林が現れる。実弾演習を主たる目途とするキャンプ・シュワブ並びにキャンプ・ハンセンだが、敢えて相違点を挙げるならば前者の国道に対し、後者は沖縄自動車道であることではないか。
 普天間の返還は決まっても亜細亜最大の米軍基地である嘉手納は、勿論住居近隣施設の内部への基地内移設は着実に進んではいるものの、永久にわが国に還ってくることはあるまい。従って今後とも沖縄が米軍基地と共存していかなければならないのであれば、可能な限り安全性を確保するために、遠方即ち市街化度合いの小さい県北部への移設が実現可能な策として浮上するのはやむを得ない。
 恐らく10年を経て再び訪れると、この辺野古地区、所謂「キャンプ・シュワブ沖」の様相は一変していることだろう。勿論、現在もこの地は基地の街であることには変わらない。しかしながら絵に描いた様な景勝地であるこの海の眺めは、普天間基地跡再開発とともに沖縄の今後を担う非常な重責を帯びている。とカーナビにも記載されていない「平和の塔」にて波の音に耳を傾けながら想いを馳せ、再び進路を南に取ると空港に取って返して機上の人となり、移動の多い一日の終幕に向かうのであった。
 僅かながらでも政治に関わる身の上となった上は、昨日の司令部壕をはじめとする戦跡は元より、機会があれば一度は基地の島・沖縄の今を目にするべきであろうし、微力であっても声を大にして広報に務めていくことが、その機会を得たものの使命であろう。ありがとうございました。

5月27日(日) 保守される革新  -地域情報 - 沖縄-

d135.jpg 沖縄の朝は豚味噌、という訳でもあるまいが、折角バイキングに並んでいると手が伸びて揚句熱射のなか更に喉が渇いて仕舞う。ソーキそばの印象から沖縄は薄味かと勘違いしていたが、印度にカレーと同様、思い切ってより発汗させるのが熱さ対策の知恵なのだろう。
 ゆったりと朝食が採れたのは前夜2時過にベットに入ったにも拘わらず意図的に6時半に起きたからである。水戸の際もそうだったが旅は極限まで有効活用したいという貧乏性の為せる業で、早朝の空き時間を活用し、5年前は建設途上だった戦後初の沖縄軌道線ゆいレールで首里へと向かった。首里城そのものは駅から少々距離があるのでパスしたが、日曜の早朝とはいえ余りのガラガラ振りに経営が立ち行くのか他人事ながら不安になった。長年の車社会への慣れもあろうが、起終点を走破しても20分程度の距離で首里止まりでは観光にも通勤にも中途半端なのだろう。

d136.jpg この日は日曜なので前段は戦績巡りに費やす。旧海軍司令部壕で太田中将の決別電「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」に触れ再び胸を熱くした後は、ひめゆりの搭、平和祈念公園という定番コースの激戦地を訪れる。
 率直に言って司令部壕→ひめゆり→祈念公園と軍から民へとその比重を移していくに連れ、展示をはじめ意図するところは日本国家の立場から見れば自虐、偏向と評しては言葉が過ぎるならば、少なくとも左傾化していく様に感じられる。しかしながら沖縄の歴史と地理環境、更には現下に至る軍事的意義に基づく米軍基地施設の存在に鑑みれば、単純に左右と割り切ることからして無理があるのだろうか。

d137.jpg ここから一路北上の間に半世紀の時空を超え2000年サミット会場・万国津梁館に赴き、小渕元総理に5年振りに再会する。更にブセナ海中展望塔への途上、プライベートビーチにて波と戯れる。と書くと如何にも沖縄最高級、かのブセナテラスに宿泊すべく装っているが予算の都合上、実態は単なる通行人に過ぎない。
 勿論、真実の宿もマリオットホテルなので決して卑下しなければならない謂れは無い。寧ろビーチまで距離があるが故だろう、プールの充実振りには目を見張るものがあり、そもそも確かに日曜の夜なので空室率は高そうに推察されたものの男10人で全員ツインのシングル・ユース、各部屋ベランダ付きとはホテルが贅沢なのか、我々が贅沢なのか微妙なところではあるが、豪奢には違いない。
d138.jpgd139.jpg
波と戯れる/SPAで寛ぐ 筆者
 ところがプールには自前の海パンでなければ入れない、SPAは借パンでもOKだが枚数が足りるか金銭負担が生ずるかは判らない、とホテルマン氏の解説が要領を得ない。5年前にも夜中に泳いだり、半日だけショートコースを回ったりと"精力的に寛ぐ"本末転倒のリゾートに注力したが、今回も責めて気分だけ味わおうと海パンを購入してSPAとプールを往復。15分4000円換算とは品プリ並だが、結果的にはパンツは余っていたし、SPAは無償だった。
 夕食時にレストランの責任者風の方がいみじくも「建物は誉めていただけるがサービスはまだまだ」と吐露しておられたが、翌朝出立前に生ゆうこりんにお目に掛かったのは望外の果実として、ブセナとの差はハードになくソフトにあると深く頷いたのであった。

5月26日(日) 私の夏  -地域情報 - 沖縄-

d132.jpg 沖縄である。「綺麗な海を見ながら~♪」である。せんだみつおが「ナハッ、ナハッ」である。僅か二週間前、八甲田の寒風に見舞われたかと思いきやいきなり南の島である。通例視察は二泊三日のところ、盛り沢山に詰め込みんだ為はみ出したゴルフを土曜日に前出しした計画四日の大名旅行、と評しては殿様方の怒りを買いそうなお大尽振りである。
 而して到着程なく急いだ沖縄CCだが、昭和40年開場と本島最古参に属するゴルフ場で市内から車で20分の好立地、必然的に距離は短いが左右も狭い。言うならば飛ばない私には非常な好条件にも拘わらず、前回に続くアイアン不調、更に午後スタートのスルーで一息入れる間もなく挑んだ後半にはドライバーもメロメロ。破れかぶれでマン振りすると一発は見事に飛んだが、以降は狭いコースに限って大きく右旋回してOBと、自己ベスト更新の同僚を尻目に今や本土では希少な高麗グリーンの重さを実感出来たのが唯一の収穫という散々な出来に終わった。しかし幾らオリオン麦酒が薄目とはいえ飲み続けても全く酔わない迄に滴り落ちる汗と、ホール毎に随分と待ち19時近くにコースを後にした時点でなお夕刻の如き陽の長さ亜熱帯の香りを醸し出していた。

d133.jpg ゴルフは重症だが悲嘆に暮れる暇もなく、ぺるり提督も来訪された泊港は安易なのか馴染み易いと言うべきか、曰く評価し難いネーミングの港湾施設"とまりん"に併設された宿地・沖縄かりゆしアーバンリゾートナハに文字通り草鞋を脱ぐと、Tシャツ短パンに衣替えして南国モード全開で焼肉を鱈腹賞味する。更に繁華街に向かって練り歩いていくが既に時は23時近い。
d134.jpg やって来たのは夜の国際通り。最早閑散としているかと思いきやお土産店まで当然の様に店を空けており、辺りは未だ宵の口の風情である。一歩路地を入ると客引きの激しさに閉口させられたが、沖縄経済が如何に観光客頼みかつ疲弊しているかが伺われるということなのだろう。と恰も経済評論家の如く蘊蓄を傾けながら、地域振興のためにも消費に貢献することこそ我等の務めであろうとしっかり夜の街を謳歌し、第一日の夜は静かに更けていくのであった。

5月23日(水) 意外なる多忙  -日記 - 日々のつれづれ-

d130.jpgd129.jpg
 相手のある商売故に例えば月曜日が暇になって仕舞うのは避けられないとしても、時に過剰に日程が集中する日があると少しは分散出来なかったものかと恨めしくなる。今日は8時から議連傍聴、9時半からは2時間を超える長丁場で団塊プロジェクト、これを中座して丸ノ内に急行し昼は某議員と会食す。取って返してミーティング、漸くひと息付いた間にかりゆしフェアを覗き、16時からは新たに始まった環境の研究会がまた2時間。更にニューオータニで講演を聞き、19時半から夜も某議員と会食で終了は23時過と盆と正月に新嘗祭と雛祭りが一遍に来た様な繁盛振り。
 通例がヘッドスケジュールなのだから偶にはこういう日があってもいいのかも知れないが、ゆっくり排便も出来ないのは困りものである。神輿に乗る人の日常はこんなものではないと言われれば然りご尤もだろうが、員外陪席のケースは自由が利いても数合わせであれ前列兼事務方が続くと迂闊に動きも取れないし、生来余裕を持って行動したい質なので、時間が迫る~気は焦る~の黒ひげ危機一髪状態では落ち着いて論議に参加することもままならなくなってくる。とは言え明日からはまた暇なのだが。

5月22日(火) 外に四目を明らかにし  -政治・経済 - 経済-

d131.jpg
昨年7月のYIES講演会。
右下が在りし日の平岩氏
 平岩外四元経団連会長が亡くなられた。享年92と言えば大往生に違いないし、稲葉興作氏であるとか平岩氏の後世代に当たる財界団体の長経験者で既に鬼籍に入られている方もあるので本来驚くには当たらないのだろうが、昨年も車椅子とはいえ元気なお姿を拝察する機会があったし、勿論近しく接したことはないが、豊田経団連の広報担当として記者諸兄を通じて前任者である平岩氏のお人柄に触れる機会もあっただけに、何となく何時迄もご健在である様な幻想に囚われていて衝撃は隠せなかった。
 平岩氏と言えば「蔵書二万冊」の謡い文句が耳に焼き付いて離れないが、名を馳せたのは経団連会長として掲げたキャッチフレーズ「共生」ではなかろうか。それはバブル経済への反動と日米貿易摩擦の激化を時代背景とするものだが、原発をも抱え必ずしも自由競争一辺倒にはそぐわない電力という業界の摂理であるとともに、恐らくは平岩氏が終生師と仰いだ木川田一隆氏の修正資本主義とも言うべき信念に由来しているのであろう。
 しかしながら平岩経団連最大の"業績"と言えば矢張り政治献金の斡旋廃止を嚆矢とすることになろう。それは平岩氏自らが後に述懐した通り、細川連立内閣の発足という未曾有な事態に対処するための「緊急避難」措置に他ならなかったが、その意図は別として野党に転落した自民党への縁切り状にも等しく映り、結果的に僅か一年で当の自民党が政権与党に復帰しただけに、以降日経連との合併を経た奥田日本経団連による政策評価の実施、即ち政治資金の斡旋に替わる"推奨"が具現化されるまで両者のギクシャクした関係が続くとともに、現在に至る企業献金性悪説のひとつの根拠となっている。それは時代の転換期に位置した巡り会わせであり、ひとり平岩氏の責に帰すものでは決してないが、兎角政治との距離感が取り沙汰されている御手洗経団連の一周年を迎えた現下における峻別のみならず、その功罪は今後とも検証されていくべきであろう。合掌。

5月21日(月) 以って宏池に臨む  -政治・経済 - 政治家-

d128.jpg 大宏池会という標語は加藤紘一氏が脱税問題で苦境に立たされた02年1月から新聞紙面に踊り始めたので、既に五年も唱えられ続けていることになる。そもそも宏池会とは池田勇人元総理を始祖とする政策集団、所謂派閥で派閥第一世代より唯一同一名称を貫き本年50周年を迎えた老舗であって、吉田茂の系譜に繋がることから保守本流と称されることが多い。しかしながら98年12月には第五代会長宮澤喜一氏から加藤氏への継承に伴い河野グループ大勇会が分派、更に00年11月の加藤の乱を巡って二つの宏池会が誕生したのは記憶に新しいところだろう。ただ領袖が何れも分裂の当事者から代替わりしていること、取り分け加藤氏の存在が希薄になっことが昨今の合併熱を加速させていると思われる。
 しかしながら派閥同士の合流は弱体化後に吸収されたケースを除けば、古くは角福決戦の73年に福田派、旧佐藤派保利系周山クラブ、園田派らが集合した福田派再編、99年の旧中曾根派、亀井グループの合併の2例を数えるのみであり、分裂した派閥が元の鞘に治まったのは、旧大野派である船田、村上両派が水田三喜男氏を立てての再合流を帰途しながら結果として流産に終わったのが最も具現に近付いた事態で、実例はひとつもない。
 今回も麻生、谷垣の両総裁候補を抱えることは派閥の原理からして有り得ないので当面は両宏池会の先行統合が俎上に上ろう。お公家様集団と揶揄され続けた宏池会において、党人派領袖という田中六助氏の見果てぬ夢を成し遂げた古賀会長の腹ひとつかも知れないが、そもそもポストの配分調整を最大の便益とする昨今の派閥が必ず総裁候補を必要とするとは限らず、またそうなったとしても何等かの契機が訪れなければとんとん拍子の進展は難しかろう。それは政局が風雲急を告げた時ということなのか。

5月20日(日) 束ねたブーケ♪  -育児 - パパ育児日記。-

d127.jpg 公資が遂に立ったと思ったらテーブルに捕まりながら周回し、気が向くとすっくと立ち上がり手放しで二歩、三歩と前進してはペタンと尻餅を付いている。業を煮やして全速這い這いに切り替えたりもするが、鍛練に余念がない。祐旭の時もそうだったが男児は総じて動き回る性癖があり、愈々迂闊にモノも置けないし、危険性が倍加することになる。
 それでは満天の下でと三人で公園を訪れてみると、今度は靴の感覚や地面への本能的な忌避感が働くのか父に捕まって動こうとしない。お陰で腰痛にも拘わらず公資を抱えて疾走する祐旭を追い掛ける羽目に陥った。このところ車上に立ち上がって仕舞うので決して安全無謬ではないとはいえ乳母車持参で来れば良かったが、自転車ではそれもままならない。しかも改めて痛感させられたが前後に乳幼児を載せてのサイクリングは何と負担の大きいことか。腰ばかりか左膝までも負傷して仕舞ったと思ったら、補助力の電源が入っていなかった。近所にお出かけも一苦労である。

 女子の中京テレビ・ブリヂストンレディースで横峯さくらが見事逆転優勝を見た後チャンネルを捻ると、いきなり15歳高校一年生の勝利である。大詰めの17番でバンカーからチップインとは神憑り的ではあるが、一体男子プロは何をしているのか。これでは男子ツアーの試合数が年々減りつつあるのもむべなるかなである。或いは世代交替の過渡期ということなのか。

5月19日(土) YMOと書いてHASと読む  -音楽 - ライヴレポ・感想-

d126.jpg 生YMOは散解、再生、これも既に5年前になるSketch Show公演に教授がゲスト参加した回と全盛期は兎も角、節目節目は抑えてきたが、ここ数年はHuman Audio Sponge名義で散発的な活動が続いていたし、麒麟麦酒のCM出演まであったので嫌が応にも"再々生"への期待は高まっていた。
 そうして迎えた本日の公演にも策を弄して辿り付くことが出来たのは僥倖であったが、結論から言うと随分とファン・サービスに配慮した内容と評することが出来まいか。勿論、83年の散解は予想を裏切って最初から最期までヒット曲のオンパレードだったし、今般も事前の当人達の発言から全編YMOではないかとの憶測もあったのに比べれば穏当な選曲ではあったが、93年の再生が新曲が並ぶ中に中間コーナーとして過去3曲のリアレンジとアンコールで原曲通り2曲で、アルバム「Technodon」に馴染めなかったこともあり、思わず友人と中途で東京ドームのビッグトイレで小水に時間を費やして仕舞ったことを考えれば、YMO史上初のMCも含めて普通の公演らしい盛り上げ感もあれば肩透かしもありの楽しめる2時間弱であった。
 取り分け、今般のお題である小児癌救済チャリティーの趣旨に沿う「自助」をテーマとした「以心電信」、細野さんのトリビュート・アルバムにユキヒロ氏がカヴァーした「Sportmen」、HASでは既に定番の「riot in Lagos」、三人が交互に歌う魅せ場を擁した「音楽」、麒麟のCM曲「Rydeen 79/07」、更にアンコールの「Cue」という旧曲群は何れも意図が感じられ、納得出来る配列と言えよう。「riot in Lagos」もこれまでのラップトップ主体の演奏から主旋律を明確にする微妙な再修整が図られていたし、何よりも細野・高橋両氏主導で製作され、坂本氏が反発して「何も関与してないから」演奏ではドラムに回ったという因縁のある「Cue」をわざわざ、その教授ドラムまで再現してオーラスに演奏するというのは、現在の如何にも肩の力の抜けた、HASの立ち位置を象徴する光景であった。
 正直なところアルバムと大差ない後期Sketch Showの楽曲は退屈さは否めなかったが、散解・再生が何れも最期はデビュー曲である「Firecracker」で〆て、如何にもお別れですという終わり方だったのに対し、ユキヒロ色が強いとはいえ新曲もあったし、何となくまだ次の展開もあるのではないかとの淡い願望を抱きたくなる糊代を感じさせた。単なる懐古趣味でなく、繰り返しになるが実質的にたった1曲とは真の再々結成YMO曲と言える「Wondrful To Me」の如く、時代を超えて継承されるべき楽曲を三人で生み出すのが未だ可能であることを是非もう一度証明してほしい。それがYMO世代と呼ばれる、この日パシフィコ横浜に集まった多くの人々に対する責務と言っては酷に過ぎるが、しかしそうあって欲しいと、三階席最後列から豆粒の如くのHASの舞台を見詰めながら、余韻に浸るのであった。

5月18日(金) のぼうるの頃から  -スポーツ - プロ野球-

d125.jpg 私が初めてベースボールマガジンを手にしたのは82年12月号で、概ね週刊ベースボールの定期購読開始と同時期であった。ところが継続購入を企図したにも拘らず、恐らく日々の球界動静を報道する週刊との住み分けが図られたのだろう、1946年来、戦前の前身「野球界」から数えれば一世紀を超える歴史を有する老舗月刊誌は唐突に次号から季刊化され、「背番号」「野球場」「救援投手」といった個別案件を核とするワンテーマ・マガジンに変貌したのであった。実質的には春はシーズン展望、秋はシーズン総括のため個別テーマは年2回ではあるが、昨今は使い回しのネタも尽きてきて、1970年代特集であるとか些か御座なりなお題に終始していた。その中での今般、再び突然の隔月刊化である。
 裏金やら特待生やら野球界が荒波に見舞われている昨今だけに、第一回を飾るのは、究極の与党メディアとしてはやりにくいのかも知れないが、「事件・スキャンダル特集」といったセンセーショナルな形ではなく球界刷新に寄与すべく斬新な企画かと思いきや、「監督」という定番中の定番で、私の手元にあるだけでも4度のお務めになる。既に週刊ベースボールも速報性では対抗すべくもないからか特集の占める範囲が大きくなっており、これでは再び差異が曖昧になりかねない。所詮エンターテインメント誌というのは百年河晴を待つに過ぎず、読者もそれ以上を望んでいないというのもその通りだろうし、固定客相手の商売だから年刊4回が6回に増えても購買力の範囲内に収まろうとの判断かも知れないが、影響力があるだけに易きに流るるは残念な気もする。
次のページ

FC2Ad