コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

5月29日(月) はかない夢  -グルメ - お酒全般-

c723.jpg 久々に大型の飲み会で二次会のみならず三次会も確実と踏んで睡眠充分、体調万全で挑んだがブラジルに続き撃沈した。
 過去2回前後不覚になった店は焼酎が濃いのが最大の難関であったし、ブラジルでも森伊蔵を勿体無くもガブ飲みしたのが敗因だった。考えてみれば自らのペース配分で飲むことが可能で、水割りかロックであっても時間を掛ければ必然的に薄くなっていく焼酎に対し、注ぎ合うことが前提で杯を空けるに従いピッチの上がっていく日本酒の方が酔って当然なのに焼酎で死亡するケースが相次いだのは、焼酎が体質に合わないからに他ならないとの主張は、今般の麦酒と日本酒による沈没で覆されたと言える。
 しかしながら今回特筆されるのは泥酔したにも拘らず嘔吐に至らなかった点だろう。従前にも述べたが、私は泥酔する前に嘔吐感が襲ってくるため、気持ち良く酔って記憶を失くす迄には至らない一方で、翌日に余り持ち越さない。それは根源的に酒が弱いからであり、強い人は吐かないから宿酔いになるのだと認識してきた。ところがこの日は周囲から冷たい視線を浴びたか否かは別として、本人としては快適に醜態を晒し、結果翌日は極度の頭痛に悩まされたのである。これは肝臓のアルコールへの耐性が強化されたが故か、或いは自発的に嘔吐するという自己管理能力が失われたためか、果た又矢張り焼酎でなく日本酒だったからなのだろうか。もう一度検証してみようとは敢えて思わないが、何れ身を以て検証することになろう。

5月27日(土) 住めば都  -政治・経済 - 政策-

c722.jpg ひょんなことから馬事公苑近辺を散策することとなった。この辺りは絵に描いた様な瀟洒な住宅街であるが、駒沢公園からも程近く、一帯には陸自の屯地も鎮座していることに鑑みれば、恐らく軍関係含め戦前から公用地の多かった地域なのだろう。と歩を進めると「公務員弦巻宿舎」という看板を発見する。
 財政再建のための政府資産圧縮、その一環として公務員宿舎の売却論議が喧しい。確かに盛んに指摘された南青山宿舎は外環からして豪奢だし、概して写真の千鳥ヶ淵の如く都心の一等地でありながら2~3階建てで土地の有効利用とはお世辞にも言い難い。しかも建物が古い分世帯辺り容積は比較的広い。嘗ては老舗の民間企業も同様に社宅を持っていたが、多くはバブル崩壊後に売却され、新興勢力や地方基盤の昨今業績優良な会社は端から都心には物件を有していないのでとくに公務員宿舎が目立つことになり、結果として槍玉に上がることになったのも理解出来ない訳ではない。
 しかしながらとくに国家公務員は国会待機等不毛な時間もあれ長時間労働には違いなく、各省幹部ともなれば災害時をはじめ一定時間以内に出庁しなければならない義務も負っているため、霞ヶ関への移動時間の少ない立地に居住せざるを得ないケースも少なくない。或いは弦巻宿舎にしても確かに居住環境は良かろうが公共交通には決して恵まれず、農水省ということは馬事公苑や東京農大への勤務者もいるのかも知れない。勿論関係者はその事情は百も承知で、党の検討も低利用地を集積した上で生じた余剰を財政再建の原資に充てるというものである。しかしながら往々にして公務員を標的にするのは、とくに本件は絵があるだけに判り易いためにマスコミを中心に目の仇にされ易い。それを充分に踏まえた上で、粛々と進めていくことが肝要だろう。

5月26日(金) もうメザシは食べない  -政治・経済 - 政策-

 行革推進関連法案が成立した。この中には公益法人改革と市場化テストに関する具体策の手続法も含まれているが、本体の行革推進法案は政府系金融機関の一元化、道路財源の一般財源化検討を含む特別会計の半数以上削減、国家公務員5%削減、政府資産半減といった、従来なら一内閣の命運を掛けて取り組まなければならなかった行革の重要課題に関するプログラム規定が盛り込まれている。大半は昨年末に自民党・行革推進本部で決定された内容であり、党内・与党内、また政府においても当然正規の手続きを経て決定に至ったものだが、郵政解散による圧勝と旧来の所謂"族議員"と称された各分野の実力者が半ば休眠を強いられた中で、長年の検討課題をあれよあれよと言う間に在庫一掃したという感も、評価の是非は別として否めないのは事実だろう。
 更に驚異的なのはこれまでの「改革」においては、党内で個々の方針を議論し、その決定を受けて詳細が示された法案を逐条審議した上で政府が国会に法案を提出するという手筈が踏まれ、だからこそ郵政法案においても党内手続きの過程が注目の的となったのに対し、今回は個々の大方針を纏め上げた段階で敢えて法制化することで、悪く言えば個々の「改革」の詳細を審議する暇は与えず、後代の方向性を規定することに成功したことだろう。個別案件の詳細に議論が移れば必ず予想される反論にこの法案は錦の御旗として掲げられ、その際に党内の決議や閣議決定に留まらず与党全体が賛成した法案である意義が重く浮かび上がってくる。恐らく、「改革」とはかくの如く革命的な手法でなければ進まないということであり、その点で確かに小泉内閣は改革を成し遂げたと言えよう。

5月24日(水) 総資本の使命  -政治・経済 - 政策-

c721.jpg 合併経団連の第5回定時総会が開催され、奥田碩会長が退任し御手洗冨士夫新会長が就任した。盛田昭夫元ソニー会長が就任目前に病に倒れてから12年余を経て遂に電機業界からの会長が誕生することには、この団体の活動に些か関わった経緯のある者としては幾分の感慨があるが、それはまた別の機会に譲るとして、去りゆく奥田氏について述べるならば氏の最大の功績は経団連と政権与党の関係を著しく修復・強化したことだろう。要因のひとつには経済財政諮問会議に参画したことが挙げられるが、これは政策に反映させるべく提言活動を行う経済団体としての経団連をダイレクトに政策立案に結び付けるという効果こそあれ、一面では政府に取り込まれるという危惧を生じさせ、小泉内閣終焉後は経済財政諮問会議の地位にも変貌が予想されること、また奥田氏個人のキャラクターに依存する部分も大きかったことから、経団連としてはこの効用には内心複雑な感情があったのではないかと思われる。
 従って、矢張り特筆すべきは政治献金の斡旋復活に他ならない。93年の政権交替に伴い、当時の平岩会長の"緊急避難措置"として断行された献金斡旋の廃止は、程なく自民党が政権に復帰したことから両者のしこりとして長く残置された。企業に取っても個別に献金を要請される煩雑さとともに、各業界・企業の独自判断による献金は反対給付との非整合性に様々な配慮を加味せざるを得ず、上部団体たる経団連に何等かの指針を求める声が耐えなかった。当の経団連としても「口は出すがカネは出さない」という圧力団体の本旨に悖る行動原理には忸怩たる想いが強かったろう。奥田氏はこの軋轢を事実上の斡旋復活で乗り切るとともに昨年の総選挙では自民党への明確な支持と物心共々の支援を実施することで、従来以上の蜜月関係を築いたのだ。
 そもそも法人として実在する企業が献金という形で政治に対する影響力を発揮することには何等咎め立てされる筋合いはないし、社会に存する様々な集合体、-猪口孝氏言うところならば"アクター"-が個々の利益に基づきシンクタンク等を介して個々の議員なり政治集団に働き掛け、政治の任務は錯綜する様々な利益の調整機能であるとされる米国型システムを前提にするならば寧ろ推奨されて然るべきだろう。問題なのは議員内閣制たるわが国においては、働き掛けられるべき政治集団が政党組織、就づく自由民主党、民主党、更に広げるとしても公明党までの最大限三団体しか存在せず、必ずしもそれに見合うためではなかろうが、働き掛ける側も詰まるところ"総資本"たる経団連と"総労働"たる連合に集約されることである。即ち消費者、と言っても御杓文字抱えて騒ぎ回る先鋭的な消費者団体に非ず、消費者たる側面を強く有する都市部サラリーマン層の意見代弁者となる"アクター"が存在せず、当然にバーゲニング・パワーを発揮するための前提のひとつである献金もなし得ない。結果として、都市部サラリーマン層の投票行動は選挙の度に揺れ動き、その利益は反映され難いという構図が続いている。
 御手洗経団連が直接それを代弁することは団体の性格上困難だろうが、その支援対象である自由民主党の消長に大きく寄与するためには緩やかな組織体を自ら形成するか、自然発生されたものを集積するかという手段は別として、何等かの形態で都市部サラリーマン層の利益を糾合するべく試みることが必要となるのではないか。現行では形式上その任務を担うとされている労働組合もまた真剣に糾合を企図することにより、東西対立の過去を背負ったままの総資本対総労働という構図とは少々異なった形での献金の意義も再定義されていくのではないか。

5月22日(月) ボンズがBOZEで丸儲け  -スポーツ - プロ野球-

c720.jpg 米大リーグのバリー・ボンズ選手が "神様"ベーブ・ルース選手の本塁打記録714号に並んだ。嘗てハンク・アーロン選手が矢張り神様を超えようとした際には、人種問題から身の危険すら取り沙汰される激しい非難に晒されたのに比して、今やその人種問題が故に識者が一様に疑惑の目で眺めながらも表立って批判めいた言質を吐きにくいのとは隔世の感があるが、同時にボンズ選手の軌跡が映し出されると、恰も同じく名外野手であった父、ボビー・ボンズ選手の映像かと見紛う程痩身な、若き日のさながら別人の氏の姿があり、再び隔世の感に駆られるのである。
 野球史上唯一の五百本塁打・五百盗塁を達成したボンズ選手の偉業を称えるには論を待たない。ボンズ選手以前の年間本塁打記録保持者であるマクガイア選手も同様に長距離打者に転向してからの変貌振りが指摘されるが、それは著名であるがために余計に目立つに過ぎず、当節の清原選手もプロ入り時の相貌と比較すれば同一人物とは俄かに計り難いのかも知れない。それでも尚、何等かの特殊な作用に拠り肉体を改編したのではないかとの類推は免れないだろうが、考えてみれば所詮職業野球は興行である。五輪が国威発揚と国家間の競争との観点からは戦争の代替としての側面を有しているのに対し、国内競技は地域振興の効用こそあれ、現在程に煩雑に毎年陣容が入れ替わる米大リーグがその任を果たしているのかは甚だ疑問である。ならば本人が肉体上のリスクを自覚し、その効用と害悪を敢えて公開し、かつ不正な金脈の温床になることがないのならば、薬物を利用することに著しく目くじらを立てる必要性があるだろうか。そもそもどこまでが正当に体を鍛える行為でどこからが不当な改造行為であるとの線引きは、競技上の勝敗と数値を競うことが唯一の目的であるならばいざ知らず、興行にはある程度寛容であって然るべきなのではないか。
 大相撲において八百長疑惑の絶えなかった横綱とガチンコを貫いたがために何度も陥落した大関では後世の評価ばかりか引退後の待遇も異なるが如く、同じ714号であっても時代に超越していたベーブ・ルースの偉大さは喧伝され続ける。その価値判断は数値で測れるものではなく、従ってそれをも加味した上で今般の記録達成の事実には冷静に拍手を送り、その結論は後代に待つことが興行に魅せられた者達の採り得る姿であろう。

5月21日(日) 羊たちの饒舌・番外編

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 偶々羊年生まれの子を持った大学時代の友人が多かったことから構想3年、「羊の会」が漸く実現を見た。直前に体調を崩し欠席する会員が相次ぎ"子どもは予定が立たない"ことを改めて認識させられたが、それでも五家族が参集し初夏の一時をともに過ごすことと相成った。
 詳細は本編に譲るが、同じ2~3歳児と雖も各者各様である。そもそも卒業後14年を経て等しく未就園の長子を持つこと自体、都心部における晩婚・晩産化を雄弁に物語っているが、一家のみ本会会員である3歳児を真ん中に三名を数える子沢山夫婦が居て、必然的に遊びが始まるとこの三兄弟が中核となったが、未だ5歳の長兄氏が他の2~3歳時児を隠れん坊や追い駆けっこに参画させるべく、巧みに誘導しているのは、矢張り日々近隣世代との接触に従事すべく宿命付けられた、兄弟の存在所以だろう。翻って残る四家は単子来訪であるが、正会員参加者唯一の女性が年少であるにも拘らず物怖じせず三兄弟と遊戯に興じる中、弾性陣は押し並べて控え目と、若年時における男女の成長差をも実感させられた。
 さてこの中で本会事務局長の要職にあるわが祐旭はというと、場に馴染むに従い"お友達"とコミュニケーションを図ろうと試みる(左写真)のだが、例えば「ここに居てよ」と命じれば父母は大人しく鎮座在しているが、"お友達"は無定見に当該地に留まりはしない。結果自らの要望が受け入れられぬことに機嫌を害し、5歳長兄氏が折角隠れん坊に招聘して呉れた際も、或いは中締め後にこどもの城本体に移動し、本会会長の御母堂から電車ごっこへの参入を促された際にも、「やだよ」と失礼極まりない対応に終始して仕舞ったのである。「帰ってきたウルトラマン」の日々の熱唱の成果を披露することもなく、持参したウルトラマンを会長が一寸手に取ったのを目にしただけでこの世の終わりの如く号泣する。結果、こどもの城では滑り台やトンネルの組み合わされた遊戯場にも足を向け、単身屋上にてフラフープに精を出すことに落ち着いた。日頃物分りの良い年長者ばかりと接している、弊害と言っては大袈裟だが弱点が露呈したということだろう。父も矢張りそうであったがよく理解出来るが、内心では他者と興じたい願望と自らの主張を押し通したい自我とが幼いながら大きな葛藤を催しているのではないか。大仰ではあるが、少子化時代であるからこそ公園への出座と同様に、子ども同士の会合は存在価値を有することになろう。

5月20日(土) 濡れていくお台場に  -育児 - パパ育児日記。-

c717.jpg 久々に快晴の午後、父子手を携えて臨海散歩と洒落込む。そのこころは乳母車上の人となりながらベラベラと喋り捲っている御仁も数少ないことから、祐旭にもそろそろ長距離歩行をと悲壮な決意で一歩を踏み出したのだが、あに図らんや行きはガラガラのゆりかもめの中、ぼんやりと海辺を眺め東京見物と優雅な旅路が実現する。
 ところがビーチに日向ぼっこする人々の群れに目が止まり、行方の知れぬ道程ながら日本テレビの「ぶらり途中下車の旅」が如くお台場海浜公園駅に降り立ち、海辺へと足並み揃えて歩を進めると、果て祐旭の足元がおぼつかない。本人も日頃徒歩行を強く主張しているためか堪え忍んではいるが、「ダッコしようか」と一声掛けると飛び込んできた。それでも砂浜に辿り着くと今度は漸く写真撮影が始まったところで辺りは俄かに掻き曇り、颱風とは大袈裟だが激しい土砂降りが襲ってくる。そもそも天気予報を端から当てにせず、家を出る瞬間に雨が降っていない限り傘を持たない私の習性は梅雨時には遺憾なく裏目に出ること夥しいのだが、御多分に漏れず本日も傘は無かった。慌て再び祐旭を抱えて建物までとって返すも雨足は一向に衰えない。そろそろ倦怠感が襲ってきた祐旭を宥めるためにソフトクリームを共に舐め、何とか一瞬の隙を衝き駅まで駆け抜けたが、ダッコされたかと思えば目敏く店にバイキンマンを発見してまた降りを繰り返され、疲労のピークに達した父に追い打ちを掛ける様に、飛び乗った満座のゆりかもめ車内を見回した祐旭が呟く。「おすわり」。やむを得ず再び抱き抱えるも存外に揺れの大きな新交通システムでは危険である。遂にはしゃがんだ父の膝に跨る祐旭が父の眼鏡を手に取り、ニヤリと笑みをこぼしたと思いきやわざわざ「鼻に入れる」と宣言し、枝を鼻の穴に突っ込んでくると、耐え切れず父は尻餅を付いて仕舞った。
 今日一日でエスカレターターの乗り降りのコツを覚えるなど散歩の成果は着実に上がった様だが、その労苦は夕食早々スヤスヤと音を奏でる父の寝息に現れていたのであった。

5月17日(水) サンバの香り  -音楽 - ラテン、ブラジル、ボサノヴァ、フォルクローレetc.-

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 ブラジルでは土産購入時間帯にも敢えてCD店には寄らなかった。それはそもそもラテン音楽が好みでないからだが、帰国早々に久保田麻琴氏の「世界の音を訪ねる―音の錬金術師の旅日記」を読み、内容はワールド・ミュージックと称される各地固有の音楽事情を紹介したもので、独特のリズム感に反復し微妙に変化していく主旋律という現代テクノにも通づる形容し難い楽曲を、言語を以て著すのは如何にも難業である上に、著者が執筆を生業とする人物ではないから、良くも悪くも音楽家に筆を取らせれば条件反射で情緒的に平和を語り出す左傾メカニズムは理解出来たが、有り体に言って雰囲気は掴めても音楽そのものにイメージは膨らまなかった。ただ冒頭が伯北部"ノルデスチ"の章だったので訪れてもいないのに同じブラジルというだけで郷愁に駆られ早速CDを借りて仕舞ったのだ。
 書籍付録のミニCDが現地録音とクラブ系既音源の合成で存外に親和性が高かったので同様のものを想像していたら現地のフォークロアの如き楽曲をそのまま収録しただけで面食らったが、大音量で聴き体を揺らしてこそ文字通りトランス状態に入れる類の音楽で家で聞くには退屈だし、本来なら繰り返し耳に流し込んで味合いの生ずるものなのだろうが、自らの演奏で再現することも到底叶わないので聞き込む気にもならない。伯北部の音楽に触れる契機になる貴重な示唆ではあったが、結論としては幾多の現代テクノ同様に私向きではないことがよく理解出来た。
 同時に借りてきたのはYMOのカヴァーで弦楽四重奏やメタル、果てはファースト・アルバムをアコースティック楽器で丸ごと再演、或いはリミックスものとこれまでにも量産されてきたが、今回は期せずしてこちらもラテンである。カヴァーが本家を凌駕することはビートルズの「Twist and Shout」を挙げるまでもなく枚挙に暇ないが、それは埋もれた名曲に灯を当てるケースが大半で、耳馴染んだ楽曲であると往々にして原曲を改めて聴きたくなる効用しかもたらさないものだが、セニョール・ココナッツは以前にクラフトワークもカヴァーした実績があり、本家の三人も顔見せ興行で関わった鳴り物入りの取り組みであり、何よりも「Limbo」や「Music Plans」といったマイナー曲を取り上げていることに感心するとともに単純に楽しめた。
 「世界の音を訪ねる」を購入したのは久保田麻琴氏が嘗て夕焼け楽団を率い、サンディー氏と決別したためかプロフィールからサンディー&ザ・サンセッツの記載は割愛されていたが、沖縄音楽等を通じ細野晴臣氏とも交流の深いYMO人脈の一員に数えられるからである。詰まるところ私の音楽嗜好において現在もなお如何にYMOの影響力が大きいかを確認したに過ぎないとも言えるが、同時にYMOからの派生が微量ながらも対象拡大に資し、過去への隠遁からの防波堤となっているということだろう。

5月15日(月) くちびるヌード  -小説・文学 - 読書-

c712.jpg 多くの現代史分析が読み始めた途端に著者のイデオロギー乃至は立脚する立場が明快に感じられるものであるのに対し、保阪正康氏の著書は実証分析を重んじているだけに丁重かつ論理の明快さには感服するし、決して声高にならず一定の距離を持って見詰める視点には好感が持てるものの、著書の"意図"というものが判り難いだけに読後の爽快感には欠けるきらいがある。とはいえ既に30冊以上読んでいるのだから私の好きな作家のひとりには違いない。その保阪氏の近作「松本清張と昭和史」を店頭に発見した瞬間は、独特の史観に基づいた松本氏を批判的に論じた内容に違いないと即座にレジに足を運んだのだが、読了してみれば松本氏を資料・証言等に基づくジャーナリスティック歴史検証の先駆者として評価するものであり、私自身の読書意図に沿ったものではなかったが、"唇の厚い左翼"という私の短絡的な「清張感」には大きな一石を投じて戴いた。
 しかしながらそれでもなお松本氏の業績には異論が残る。とくに「日本の黒い霧」シリーズは、謀略史観に基づいたものではなく、ひとつひとつの事件を検証した結果が謀略との結論を導いたというのが松本氏の述懐であるが、そこには敢えて謀略との推測を論理的に形成し得る事案のみを抽出したという批判は免れ得ない。更には、実証分析のみでは当然に結論を得ることは出来ず、何等かの分析者の推論が混入することはやむを得ないし、また推論を立てることこそ分析者の役割であるというのは頷けるが、それにしては松本氏は自らの影響力、即ち大胆な推論が"事実"として後世に誤認される恐れに対し不用意にあり過ぎるし、それを自覚した上で作品を発表していたのならそれこそ謀略史観の使徒に他ならない。
 勿論それは現在の視点からの物言いに過ぎず、旺盛な執筆活動こそが松本氏の影響力を形成したのであり、発表当時はひとつの斬新な見解に過ぎなかったのかも知れない。保阪氏も松本氏の個々の著作の正当性そのものではなく、「隠された事実に挑んでいく先駆者としての戦闘的精神」を評価する立場を取っている。そこには保阪氏の松本氏に対する憧れとも言うべき観念と、松本氏の代作疑惑を否定する記述が同じくとみに昨今、著作を次々に発表している氏自身の身の上とも重ね合わされてるであろう如く、同業者としての自負が感じられるが、それ故に他の保阪作品と異なり"清張肯定史観"の与件を持って執筆されたと言わざるを得ない。しかしながら自らの松本氏擁護の心持ちを自覚しながら出来る限り客観的な記述に努め、それでもなお松本氏への愛情が行間に滲み出る文章は微笑ましいと言っては失礼だが、素直に読めた。畢竟、我々は清張史観を鵜呑みにすることなく、松本氏が世に明らかにした事実を以て個々人がその意味を検証していかなければならないということだろう。

5月14日(日) 夏支度  -政治・経済 - 年金-

c711.jpg 読売新聞によれば、政府はこれまで「週30時間以上」とされてきたパート労働者の厚生年金加入基準を「週20時間以上」に広げる方向で検討に入ったという。文末が"方針を固めた"であるし、日曜掲載の記事という点からも現時点では憶測記事に過ぎないのだろうが、省庁側の観測気球であれば大きな異論が出ない限り何れは事実になる可能性が高い。
 企業側の年金負担回避が正社員から非正規雇用への一因となっており、同時に財政に余裕のある厚生年金と窮乏著しい中、高齢化の進展で一層の困窮が予想される国民年金間の調整を図るという意図であり、企業側の反発は当然予想されるが、不況下であれば却って雇用全般の手控えに結び付く懸念があっても現状ではその可能性は少ないとの判断であり、厚生年金が定年後の所得補償であることに鑑みれば定年による急激な所得の減退の存在しないパート社員には国民年金の適用が本来は整合的だが、これも景気回復のひとつの証左と考えれば妥当な判断と言えよう。一方で、現行では10年未満の短期雇用者の厚生年金は企業年金連合会に回りそこからの給付になるが、短期雇用を繰り返す厚生年金対象者が一層増加することを踏まえ、個々人の現在加入している年金制度と将来の合算年金給付を周知徹底すると同時に、早急に年金通算=ポータブル化の更なる推進の検討に迫られることになろう。

 今年も井村屋パインがコンビニに並ぶ季節がやって来た。長い冬が終わったと思ったら一挙に梅雨に突入し季節間の狂いそうな中での到来は、夏の到来を予感させて呉れる。
 井村屋のパイン来たりて夏支度。
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