コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

1月31日(火) 運命と使命  -政治・経済 - 政治家-

 防衛施設庁の談合発覚で額賀防衛庁長官の進退問題が取り沙汰されている。額賀氏は98年11月には防衛庁調達実施本部の背任事件で防衛庁長官の引責辞任を余儀なくされ、「運が悪い」と同情された。更に01年1月にはKSDからの資金提供問題で経済財政担当相を辞任。この際は勿論同氏の責任も否定は出来ないが、資金集めの方策等「脇が甘い」と指弾された。現時点では今般は辞職には至らない公算が高いが、ここ迄重なるとそういう星の下に生まれてきた運命なのだと思わざるを得ない。
 そもそも額賀氏は旧橋本派において鈴木宗男氏、藤井孝男氏とともに次代を担うプリンスと目され、鈴木氏の逮捕、藤井氏の落選により次期領袖の地位が固まると、昨年の内閣改造においても小泉退陣後を争う"麻垣康三(マイナス福田)"とともに入閣を果たしたことで辛うじて後継レースに踏み止まったと見られていた。人格温厚にして政策の細部よりは他人の話もよく聞き「政治家」らしい力量の持主と高評価のある額賀氏は防衛施設庁解体を成し遂げることにより、寧ろ災い転じて福と為す位の意気込みで、難局に当たってほしい。それがわが国の今後を担うべく使命を与えられた者の務めではないか。
c619.jpg しかしライブドア、牛肉問題での中川農相発言、防衛施設庁と相次いで、表現の良し悪しは別として、政権末期の様相を呈してきた。それがいわゆる政権末期の症状に直結しないのは、相変わらず50%を超える高い支持率と、既に小泉内閣が本年9月で終了することが決まっており、現実に政権末期であることが了解されているからだろう。

 昼・夜ともに大学時代の友人と飯を食う。何れも私の職務に関連してちょいと話を聞かせてほしいとの要望でいそいそと出掛けていった。直接仕事とは言い難いがそれに類する出来事が続くと我々も年を取ったものだと実感する。

1月30日(月) 距離感  -政治・経済 - 経済-

 新聞報道によればイオンがパート従業員の組合員化を拡大するという。イオン労組は既に組合員3万人の内正社員は1万4千人に過ぎず、更に勤務時間の少ないパート職種者約4万4千人を加盟対象者に加えるとされている。
 個々人により職務内容も勤務体系も余りに異なったいわゆるホワイトカラー層を一律に年齢によって分類し、管理職でないと分別された者は勤務時間を唯一の物差しとして団体交渉の対象にするというのは余りに歪な形態であり、一方で製造業における工場労働者やサービス業従事者等、現在もなお労働組合に依拠する必要性のある職種は存在することも事実である。その観点からは、終身雇用、年功賃金制とともに戦後わが国の経営を支えた企業内労働組合はその使命を終え、寧ろ欧米型の職業別組合に回帰すべき時期を迎えているのではないか。
 ならば兎角既存の組合員だけを守るべき対象として、就職難、正規社員以外の雇用形態の拡大といった雇用の流動化時代に何等その役割を果たしていないと批判を浴び続けてきたわが国労働組合において、イオンの対応は英断と称えられても可笑しくない。が口火を切るのがイオンとなると、労働者の組織化による民主党票・資金源の拡大が狙いであると、実際には上記の極めて真っ当な意図であったとしても勘繰られるのはやむを得なかろう。
 或いは「まちづくり三法」改正問題において、同様に逆の意図から揶揄される恐れがあることに鑑みても、政治と経済が、実際には何処まで近しいものであるかを問わず、密接であること、或いは密であると外形上判断されることは経済原則にバイアスを掛ける可能性を生ぜしめ、実に美しくない。

1月29日(日) 国家の品格  -政治・経済 - 社会-

c614.jpg 藤原正彦氏の「国家の品格」が大ベストセラーとなっている。一言で言えば、わが国はグローバル化=米国化の中で、固有の考え方を失いつつある。世の中のあるべき姿には論理では説明し切れない武士道精神に代表されるかたちがあり、それは子供の頃から国語教育を通じて叩き込まなければならない、ということになる。こう書いて仕舞うと単なる精神論の様だが、数学者であり「八甲田山」の新田次郎氏の御子息である著者が、とくに前作の「祖国は国語」に収録されたエッセイが洒脱であるが、時にユーモアを交えながらの語り口がリズムよく、心地よく読める。
 判りにくい比喩だが嘗て漫画「票田のトラクター」で中村元民自党幹事長が改革の旗手として自らに反旗を翻した稲山一郎議員に対し、自らの立脚する世代の総意代表として稲山に立ちはだかりそれを乗り越えさせる役目を担うとした様に、藤原氏自身、"年寄り"の役割として安易に若者に迎合することなく、自らのこれまで培ってきたものの考え方を若者に示していくことが必要だと述べているが、残念ながら同じことを言わば"改革者"の側にあるべく若人が述べても、単に既得権益に安住した守旧派の如くにしか映らないということだろう。同時に幼少教育における国語の重要性、英語の不必要性を力説する氏ご本人が数ヶ国語を操る語学フリークであることには、わが身の不甲斐無さを思い知らされる。
 ただ耐震偽装やライブドア問題ではないが、昨今とみに競争原理を主軸としたいわゆる改革路線に対し、揺り戻しとも見られる論調が少しずつ大きくなってきているのは、逆説的に言えば如何に小泉改革が順調に進展しているかの証左に他なかろう。個人的には、教育や労働・雇用といった観点では一定の揺り戻しが必要だと考えるが、何時の日か「痛みに耐えてよく頑張った」という小泉純一郎氏の叫び声が、ひとり横綱貴乃花のみに向けられたものでなく、来るべき近い未来の国民に対する予告の言でもあったのだと懐かしく思い出す日が、わが国には果たして訪れるのだろうか。

1月27日(土) 進化するプラレール  -育児 - パパ育児日記。-

c613.jpg プラレールも初めは見るだけ、次いで自ら電車を動かす様になり、遂にはレールの設営にも祐旭が参画する様になった。おかげで一時は二階建て、三階建てに増幅したプラレールのスケール自体は縮小し、いつ何時お父さんが新しいレールと橋脚を大量に抱えて帰ってきて収納が溢れるという事態を危惧していた妻には朗報となったろう。
 祐旭は唄も歌う様になってきた。喋り始めの頃は例えば「のぞみ」なら「み」と語尾の最後の一文字を繰り返し、それが徐々に後ろ2文字3文字と増えていく傾向があるが、歌詞も同様で
きみ・も みぇゆ ウルト・・ほ~ぢ ・・く は・・て ち・・・・とり
と書くと何の唄なのか判らなくなるが、何度も聞かせている内にMDに合わせて「帰って来たウルトラマン」を熱唱していたりする。余りウルトラ漬けも如何なものかと「お母さんと一緒」の楽曲を流してみると、以前は踊っているだけだったこのDVDにも無事反応して歌っている。即ち、これまでは記憶しているだけだったのが、自らそれを口に出すことが可能になってきたということだろう。愈々ヤマハ音楽教室の申込書を取り寄せなければならない。

1月26日(金) 墓参行路  -旅行 - 鉄道旅行-

c615.jpg 冬休みが尋常ならず長かったにも拘わらず持ち越しになっていた名古屋訪問を実現す。毎度の如くの墓参行路だが、車の運転でやけに疲労を感じたのは、乗り慣れない幅広車だったからか、或いは道路を広げ過ぎたがための、この都市特有の長時間の信号待ちのおかげか。
 当日父は丁度ゴルフだったとのことで「この位のスコアは若い頃なら何でもなかったのだが」と言いながらハーフ44が出たことに一寸嬉しそうだった。聞けば飛ばないクラブ時代の縦振りかつボールを潰す様にヒットさせる打法から、現代風の横振り・回転で当てに行く打法に改造するために週1回レッスンに通い出したとのこと。74歳にしてこの恐ろしき向上心があればエイジ・シュートも夢ではなかろう。私も百を切った位でノホホンとしていてはいけないと改めてここ数ラウンドの低スコアに思いを馳せ、慢心に心した次第である。

 ところで先般、SUICA移行の際の珍道中について述べたが、名古屋行に当たって高円寺からSUICAで乗り東京駅で新幹線の切符を買おうと自動販売機に向かうと何と自販機が対応していない。わざわざ有人切符売場に並ぶ羽目に陥った。中野からそのまま東西線に入り、九段下で乗り換えようとした際もそうだったが従来、SUICAの付属していない定期券だった頃には機械処理が可能だったがSUICAには対応していない事案が多過ぎる。東日本旅客鉄道会社は即刻、善処すべきである。猛省を求めたい。

1月25日(水) 焼き蕎麦天国  -グルメ - コンビニ-

c616.jpg 富士宮焼蕎麦が東京進出を果たしたという番組をTVで見た。静岡県富士宮市が町起しのために名物として拵えたもので、油を使わず水分の少ない麺を焼くので麺がプリプリして初めて食べた人は面食らうらしい。かく言う私も未だ口にしたことがない。
 何故そんな話をするかと言うと、焼蕎麦を食うことが多いからである。原則として野菜と丼モノが駄目な私は夜の席が日本料理だったりすると、概ね半分は手を付けられない。必然的に帰ってから追加で何かを摂ることになる。寝る前に腹を膨らませるのは明らかに体重増加に寄与するが、夕食が少なかったのでやむを得なかろうと正当化し、コンビニで食物を購入する。と言っても所謂コンビニ弁当も同様に食えないから、煎餅・ピーナッツ入りチョコレート・ポテトチップが主たる対象となるが、もうひとつの選択肢が焼蕎麦になる。
c617.jpg その際、最大の難問はモヤシの存在である。キャベツや人参は殆どの場合、麺の上部に乗っているだけだから簡易に除去することが可能である。しかしモヤシは味覚・嗅覚において麺に多大な影響を与えるのみならず、麺と混在し逐一取り除いていてはとても焼蕎麦を食べた気にさせないという重大な支障を生ぜしめる。にも拘らずコンビニ焼蕎麦の過半にはモヤシが闖入しており、そうでなくとも需要が少ないのか深夜になると売り切れのケースが頻発する中で、無事焼蕎麦にありつける日は必ずしも多くない。私の最も好むコンビニ焼蕎麦はサークルKの、ジューシー焼きそばの名に恥じずソースが寧ろ"タレ"との表現が適切な程に麺にベットリと絡まったものだが、残念ながら滅多にお目に掛かれない。ので大半は焼蕎麦と銘打つのは詐称としか言い様のない、カップ焼蕎麦にランクダウンすることとなるが、こちらもソース過剰を要求するためUFOに限られる。以前は液体・粉末2種のソースでタレ型の豊饒感を宿していた「昔ながらのソース焼蕎麦」も現在は商品内容が変更され、恐らく一般的には適正なソース量になって仕舞った。
 因みに妻に作って貰う際は、ソースと麺だけのプレーンに更に中濃ソースを掛けている。血栓にならない様気を付けたい。

1月23日(月) 逮捕  -政治・経済 - ライブドア問題-

 堀江貴文氏が逮捕された。逮捕は即有罪を意味しないし、堀江氏らが実際に罪に問われる行為を犯していたかは私には判らない。違法性の認識が無かったというのは、この程度のことは許容されようという思い込みか、厳密に脱法行為として成立し得ると確信した上で踏み切っていたのかも判らない。
 しかし多くの人は、堀江氏の存在を新しいモノとして認めなければ、古い考えの持ち主と、守旧派と見なされて仕舞うという強迫観念から意図的に、或いは無自覚に堀江氏に賛辞を送っていた層も含め、氏の乗っ取りや選挙出馬等、その立ち居振舞いに真っ当でないものを感じていた筈である。「真っ当」というのは合法か違法かの峻別ではない。人として肯受出来る生き方か否かという、論理的には説明し切れない観念に他ならない。従って違法であるかどうかは別としても、今般逮捕という形で打撃が与えられたのは、真っ当な判断なのではないか。

1月22日(日) プリンタ寿命  -写真 - デジカメ-

c612.jpg 銀塩からデジタルに主たる撮影媒体が移行し、枚数が飛躍的に増加しながらデータとして保存するだけになった写真の印刷を始めたのは、祐旭が生まれアルバムを作るべしとの妻の提起を入れてからだった。市中のプリント店で印刷すれば嘗ての銀塩の印刷相場と何故か同額の概ね35円程度に対し、自宅でプリンタを購入すれば1枚20円程度と計算上はランニング・コストは安くなるが、わがプリンタも祐旭とともに歩み既に2歳と数ヶ月、そろそろくたびれてきたのかとくに肌色系統に色ムラが強くなってきた。なお現在のクレヨンから「肌色」の呼称は消えているが今はそれは問わない。
 印刷してはクリーニングして刷り直してとしていると却って割高かも知れないが、被写体である乳児は大人しくポーズを決めて呉れるとは限らず、いきなり立ち上がったり駆け出したりするから常にフレームを大きめに取っておかなければならない。従って印刷時にはトリミングが欠かせないので、一枚一枚構図を修正し保存し直してプリント店に出すくらいなら、少々美しさにも欠け、手間も掛かり、なおかつコストも決して低減されなくとも、自ら印刷する方が楽だとも言えよう。結局、適宜な時期にプリンタも買い換えることになるのではないか。

 外来語の最後の長音を省くと何となく"業界用語"っぽくなる印象があったが、JIS基準で三文字以上の場合は省略するという決め事になっていたことを初めて知った。即ちサーバでありスキャナでありプリンタである。コンピュータプログラマというのは一寸尻切れ蜻蛉の様にも思えるが。

1月21日(土) 雪  -育児 - パパ育児日記。-

c611.jpg 都心でおしなべて一日中雪が降り続いたのは何年降りなのだろうか。高円寺に戻って10年弱を経ようとしているが、初めてではないかと思う程、新鮮な感覚を覚える。我々が子供の頃は、今よりも雪が積もっていたと記憶している。それは地球温暖化であるとか、雪そのものが降らなくなったためか、空地が減って雪が積もることが出来なくなったためなのか。

 豪雪の中タイミング悪く、祐旭が風邪を引いた。昨日に続き一寸咳き込んだと思ったら、立ったままデロデロと嘔吐して本人も驚いている。便も柔らかく白っぽいので最近流行りの嘔吐下痢症であろうと、近くの小児科医に赴く。
 既に2度の手術を経験し、予防接種や耳掃除等、白衣の人物アレルギーを生じている祐旭は、医院に到着しても乳母車から降りようとしない。幸い悪質なロタ・ウィルスではなく、軽いノロ・ウィルスだろうとのことで吐き気止めの座薬を貰っただけで済んだが、今度は診察が終わっても医院内の玩具を離さず帰りたくないと号泣する。程なく医師も帰り支度を始めたので、慌て乳母車に押し込み退散するが、胃の中が空になっているから当然お腹が空く。胃にモノを入れないことが嘔吐への最大の対処策だと言われても、乳児が納得して食べる量をコントロールしたり、お粥で我慢しておこうと合理的な判断を下すことは期待出来ない。やむを得ず夕食まで持たそうと、決して胃に優しくはなさそうだが、ラムネを数粒与えて機嫌を取る。
 漸く一段落かと思いきや、妻が胃がむかむかするという。よく考えてみると私もお腹が下っている様である。風邪と禿頭への特効薬を発明したらノーベル賞モノとされながら、双方とも致命的でないがために開発が遅々として進まないと感じられるが、矢張り風邪は苦しい。

1月20日(金) 読書の冬  -小説・文学 - ブックレビュー-

c609.jpg 在りし日の角川映画もさもあらん、と言うと大袈裟だが余り盛んに映画の宣伝しているので、ついその原作本「博士の愛した数式」を読んで仕舞った。成程ほのぼととした内容には好感が持てるし、読書は殆ど行き帰りの電車とトイレの時間帯を充てているが、文体も綺麗なのでスラスラと1日もあれば読めよう。しかし読み終えて仕舞うと特段の印象は残らない。恐らく作品が悪いのではなく、私の読書に対する姿勢に由来していよう。
 03年から05年の3年間で530冊の本を読んだ。概ね2日に1冊ずつ読んでいる換算になるが、司馬遼太郎の歴史小説の類を除けば、うち小説は10冊に満たない。それも私の文体形成に大きな影響を受けたであろう、江戸川乱歩の作品を読み直したものを含めて、である。恐らく生まれてこの方読んだ小説も、百冊に到達するかどうかのレベルだろう。思えば子どもの頃から、「神様のおはなし」を除けば、小説よりは伝記ものが好きだったし、よくよく考えれば古事記をベースにした「神様のおはなし」も可成り広い意味では歴史小説である。それは歴史小説にしろ、戸川五三六氏に代表される近現代読み物にしろ、一定の事実に基づいた、ノンフィクションものでなければ知識欲を満たさないという、無自覚の強迫観念があるからではないか。限りある時間を充てるには、或いはそれが生涯一度も役に立ちそうにない知識であっても、知識を増加させる営みに費やしたいという姿勢は一貫しているが、引き換えに豊かな感受性であるとか幅広い教養、と称されるものを育む機会を減じさせていたのならば、勿体ないことである。何しろそれ程忙しい人生ではないのだから。
 しかし今更読書の好みが変わるでなし、この反省を活かすならば、わが息子に如何なる書を与えていくかということになろう。
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