コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

1月23日(土) そして・・・めぐり逢い  -アイドル・芸能 - 舞台・ミュージカル-

h366.jpg  年に一度の定例、大学時代のサークルの新年会。個人宅に居を据えての忘年会から新年会に移行して既に十年、ここ数年はホストへ負担への配慮と各人の可処分所得の拡大、更には参加面子の固定化に鑑み、昼の店舗スタイルが定着している。
 帰国から幾年の者あらば、第二次外遊サイクルに入ったか渡英した者、渡英を控える者あり。三重より蜻蛉返りするレギュラーメンバーあらば、帝都と地方を往来する職種で中には十数年振りの再会というケースもある。
 日々の往来も激しく、土曜にも拘わらずTV出演から駆け付ける者あらば、職務に向かうべく早引けする者あり。模試の息子を迎えに急ぐべく素面のままの者あらば、子息の餅つき大会で結局間に合わずの者あり。
 流石に脂の乗り切った公私ともに多忙な世代と自画自賛しても詮ないが、慌ただしく近況を述べ合いながらもその中身の大半は子供について、上は大学受験から年中組まで多岐に亘るため、既に子育てから手が離れた先行者には懐かしい、後発組には先達の経験則が貴重な知見に当たろう。
h365.jpg  何れは孫の話しになるのだろうかなどとたわいも無いことを言いながら、私もまた早々に車を飛ばして模試会場へと向かうのだった。

 高校時代に愛知県の老舗舞台、御園座の公演を課外授業扱いで学年揃って拝察した折に、余りの私語喧騒に壇上の主演俳優から「お客様、芝居が壊れます」と御叱りを頂戴した記憶がある。
 今にして想えばそれは前進座の中村梅之助氏の舞台だったのだろう。その時分、既に再放送の「遠山の金さん捕物帖」は拝察していた筈だが、あの梅之助かと畏敬に及ばなかったのは若さ故である。
 氏以降の金さんが如何にも大物風情で桜吹雪を露にするカタルシスに焦点が置かれたのに対し、寧ろ遊び人の金さんの日常の描写が主題とも言うべき梅之助氏の金さんは、今もなお数多遠山もののひとつの雛型であり続けている。
 勿論、その酒脱な主題歌もまた印象を倍加させていよう。何しろ「ご存知長屋の金さんが、諸肌脱いでべらんめえ」である。「ご存知長屋の金さんに、捕れない者は悪だけさ」では役立たずではないか、と長年疑問だったのが「惚れない者」と氷解した際の感慨も懐かしい。
 御冥福を御祈りします。

11月19日(木) kiss me  -音楽 - J−POP-

 70年代までのプロ野球においてシーズンも終盤に至るとダブルヘッダーによる試合消化は日常的に見られる光景だった。
 それは二年に一度来日していた米大リーグとの親善試合でオフの日程が立て込んでいたのみならず、未だドーム球場無き時代には梅雨を有するわが国特有の度重なる日程変更に対処する生活の知恵に他ならないが、常に満員御礼が望める巨人戦ならば僅かな価格増で二試合分を供与するのは営業損失に違いなくとも、人件費はじめ寧ろ開催するばする程赤字になる様な消化試合を文字通り消化するには、却って経費節減の得策であったとも言える。
 翻ってパ・リーグもセに遜色なく動員力を付けた昨今は滅多に御目に掛かれなくなったが、宴席ではこうした二階建てを迫られる事例は少なくない。
h303.jpg  元より各々の一階を経た後改めて二階に結集する分には同条件だから気兼ねも少ないが、問題は既に挙行されている宴席に合流するケースだろう。当然、一階を早々に切り上げるべく誘引が働く一方で、既に長時間に亘っている次の席を自らが遅れて間の悪く合流し延長に至らしめては申し訳ないと二重に気を揉む羽目に陥る。
 このところ週に一度ずつダブルが組まれており、終わり際に滑り込み主賓の顔を見て散解、ならば限られた夜の日程の有効活用という意味では好都合だが、昨日の如く私の合流を視野にスタートを遅らせましたと言われては這ってでも駆け付けねばなるまい。 結論としては時ならぬカラオケ大会と化し、角川映画主題歌特集では政府高官の唄う「人間の証明のテーマ」に「母さん、あの麦藁帽子」と語りで割り込めば良かったと悔いを残したものの、楽しい一夜だったのだが。

 それに付けても今週は多彩な四連荘だった。とくに感じ入ったのは歌手の最大の利器たる咽頭を喪ってなお食道発声法に依り微細ながらも発声を試みているつんく♂氏への畏敬である。
 要は人為的にゲップを催し続けている訳だからそれを声帯替わりに用いるに至る労苦は計りしれまい。与謝野馨氏が喉に開く気管の穴を発声時のみ塞ぐ器具により、誤解を恐れず述べればトーキング・モジュレーターの如く発声を試みているのとは、声帯を喪った年齢の違いにも帰因する選択なのかも知れないが、同学年のひとりとして改めて前途を祈念したい。

8月4日(火) また逢う日まで  -政治・経済 - 政治・経済・時事問題-

 大学を出てからの約十年間は相継ぐ御成婚の二次会プロデュースをはじめサークル時代の友人達と飽きもせず歓送迎やら一時帰国やら祭事にかこつけては顔を付き合わせていた。
 所帯持ち、子持ちが優勢となり頻度は減っても僅か三年前には総勢40名を大江戸温泉物語に集結させたのだから我ながらマメな幹事振りであったろう。
 昨今は年中行事と化した新年会以外は縁遠くなり、それでも大学を跨ぐ公的には「学生団体」の顔を有するサークルたるが故に永田町界隈でも、旧くは小泉元総理を筆頭にOBに出会す場面もまま見られたが、今日の邂逅には心底驚いた。
 来訪された秘書の方との四方山話しの内に大学も直系の先達であると判明したばかりか三年次上席とあらばギリギリ学生として被っている。元より四年から見た新入生なぞその他大勢だから先方の記憶には存在しまいが、インパクトある風貌だけに掘っ立て小屋の如き集会所で行われた大学委員会の記憶が朧気に甦る。
 ならばその場で確認すればよいものの、往事須く渾名で呼称されており、それがまた酷似しているとの風評に基づく凶悪犯の名前そのものなのでほぼ初対面で問い質すのも気が引けよう。
 結果、嘗ての同僚に照会すると即座に同一人物であることが立証された。懐かしいと言うのとも少し違うが、更に腰が低くなって仕舞いそう。

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社会民主会館も今は更地
 先月逝去された田辺誠氏に続き山口鶴男氏が亡くなった。田辺氏は金丸元副総理と昵懇とされた「山が動いた」土井たか子委員長の後継、山鶴氏は土井時代の書記長にして村山内閣の総務庁長官、右派を糾合した政構研に属しながら必ずしも思想行動様式は一ではなかったが、前者は93歳、後者は89歳のともに大往生であった。
 翻って土井氏の前任たる石橋政嗣氏、田辺氏の次の次にあたる村山富市元総理は何れも卒寿を超えてなお矍鑠とされており、民主党への実質吸収前の社民党幹事長伊藤茂氏も90歳に近い。考えてみればおたかさんも没年は85歳であり、旧くは成田知巳元委員長からして86歳とは社会主義者は長命という仮説が導き出されそうである。
 元より塚本三郎、大内啓伍の両元民社党委員長も80代半ばを超えており思想の左右は問わないのかも知れないが、要は頑健だからこそ政治家として大成したという当たり前の結論だろう。
 御冥福をお祈りしたい。

3月14日(土) 焼鳥一丁  -グルメ - 寿司-

g972.jpg  学生時代に雀荘に入り浸った世代ではないが、寧ろ卒業後折に触れて集い、最盛期に温泉宿一泊二日三卓連動なる壮大なスケールで大会が催されていた。主宰者の多忙、メンバーの異動等により休眠状態だったのが、実に四年半振り、会の「理事長」の新築御披露目を兼ねての開催と相成った。
 しかしながらゲーム麻雀に慣れ親しんだ弊害か、面子各位に指摘された通り嘗ての面前主義から安易な泣きに走りがち、かつガードが甘く放銃の嵐で、一局休んで家主の御子息とウルトラマン談義に興ずる暇も無く只菅打ち続け、漸く三局目に満貫を自模ってトップにあり付くも、日付が変わり丑三つ時あたりに巻き返す不健康な体力主義も夕刻までの健全囲卓ではエンジンが掛かる前にタイムリミットで、巻き返せず微沈に終わった。
 時間短縮のため最終局は割れ目を採用し脳内を「ファンキー麻雀」のフレーズが駆け巡ったが、自身は一度も割れることなく割れ親満を眺めるのみで、ギャンブル性の高さこそ立証されたものの、これも制した家主の大勝に収斂したのは御祝儀相場とすれば順当な落ち着き処だったか。

g973.jpg  夜は寿司を所望するわが子達の要望を受け、定番の回転から贅沢に中級のカウンターに昇格を試みるも満席で、馬橋管内に手広く展開される地域では著名な幸寿司に建替後初の御目見えとジャンプアップした。
 卵や稲荷とコストパフォーマンス溢れる公資に対し、鮪主体の祐旭は近畿大学に派遣したくなる程だが、新装してなお平屋たる贅沢な奥座敷ならぬ奥椅子席にて叩くべき大枚も忘れて舌鼓を打つ。
 残念ながら典型的な甘垂れの煮穴子好みの父にとっては焼穴子でも無かろうが渋目の幸寿司穴子は今ひとつで、寧ろ駅弁の押し寿司か穴子飯の方がお似合いだろうか。高尚に慣れぬ味覚にも幸寿司のスノブ感は大枚に見合うだけ堪能させて戴いたが。

11月5日(水) あの人は今

g876.jpg  例えば売上や生産性の向上といった、目に見える数字で成果の表される実業の世界と異なり、影響力の行使が政策の誘導を通じて経営に寄与するのならまだしも、被害の拡大を未然に防ぐリスクヘッジの効用ならば、恰も直接の戦闘行動を回避する為の軍事力の価値が実感として認識され難い様に、日常的な人間関係の構築の齋すバーゲニング・パワーの存在は、その職責を独立してロビイストと定義させるに至った米国社会においてなお、当該インナー・ワールドに足を踏み入れない限り肌身に感じ得ないものだろう。
 出向時代の盟友達と久々に近く入閣の呼び声も高い御仁を囲みながら、勿論生臭い話題には少しとして到らないものの、主役がひと度中座した瞬間に内輪同士の旧交暖まる懐古談に切り替わる。ただ思い出は美しいものの、現に永田町周辺居住者に留まる身の上には、紐解かれる記憶に纏わる登場人物と必然的に今に至るまで交友が持続されており、かつ必ずしも身分、所属の異動少からず世間だから、彼等の足跡を互いに振り返るだけで立派に情報交換の場としても成立しているのである。
 所詮、人間関係は個と個に集約されるとしても、常に桟敷席にかぶり付きながら時には行司が廻しならぬ観客のまま土俵に登りそうになる周辺居住者同士の横の連携は、力士や付き人との円滑な意志疎通にも寄与し、その一助となるべく情報流通の意義もまたそこに見出だされるのである。
 しかし余りにマニアックな情報だけに、嬉々としてそれを比瀝し合う光景に、ひとり取り残された若手秘書氏にとっては些か奇怪な光景だったのではなかろうか。
 程無く主役の復帰とともに通例の懇親に回帰しながら、再び内輪の二次会では又もやニッチな旧交に花が咲いた。それは職責として有用な時間である以前に、尖兵としてインナー・ワールドに身を染め始めた頃の二度と帰れない日々の香りを一瞬でも再び味わうことの出来る、馬車が南瓜に戻るまでのひと時だった。

9月27日(日) 旅立ちの日

g844.jpg  想えば遥か16年前の自らの宴では、仲人たる上官に雛壇にありながら配席の序列で叱責を受けながら、二次会の段取りで頭が一杯で上の空だった記憶がある。
 時は流れ、友人の御成婚もひと亘り落ち着き、久々に同僚の華燭の典にお招きに預かれば、21世紀を迎えてからの虚礼廃止の風潮に則ってと言うべきか、当然の如くに仲人も立てず牧師も神父も神主も、あまつさえ坊主の欠片も見当たらず人前式が当たり前田のクラッカーである。
 着席すれば見慣れた顔ばかりで恰も部内会議の如しだが、ひと口に職場結婚、しかも同部局と言っても双方の所属セクションが合併していきなり正真正銘の同僚と化した展開は当人達こそ驚きだったろう。
 既に上官の役回りからは退役しているものの、何と無く電報センター係を率先して務めたおかげで、社外の要人含め滞りなく祝電披露が過ぎれば御役御免、後は飲むだけである。
g844.jpg  洋装から和装で新郎新婦の不在が比較的長かった為でもあろう、バブル期の如くヘルメットやら凡ゆる附属品を器に見立てての一気三昧といった過剰な展開に陥ることもなく、適度に主役と触れ合い得る微笑ましい宴席だったのでは無かろうか。
 ただ寄る年並みなのか、新郎新婦の紹介ビデオを眺めているだけでも涙腺が緩んで仕方が無い。ともに上官の秘書役として他に公言し難い事情や公言しても共感を得られなかろう職責上の小さな成功や小さくない苛立ちを共有出来る人物が新たな門出を迎えた姿を目の当たりにして、年格好からすれば全く見合わないし実際には存在しないから想像の域を超えないのだが、何と無く娘を嫁に出す様な心境に駆られる綱町の午後だった。

8月23日(土) ボディ・コンシャス

g784.jpg  学生時代、まだ建物すら少なかった新興都市・幕張における学生団体による国際会議は、予算5000万というバブリーさに相反する環境という些かリベラルなお題以上に、運営サイドの短期凝縮故の宗教的熱狂と排他性故に、団体本体の幹部の末席を汚す身としては距離感を覚えざるを得なかった。
 だから例年の当該メンバーのOB会において往時の映像が披露されても、現地に赴いてもいない身の上には懐旧という意味では感慨は少ない。
 ただその分第三者的な視点を持ち得たのだろうか、凡そ四半世紀前のアナログ・ビデオにも拘わらず矢鱈と短いカット割りと何よりも巧みな編集には今更ながらに撮影者の小まめさに脱帽せざるを得なかったが、同時に公式行事の場面における女性陣の服飾が、恰もトレンディドラマから時代を間違えて闖入して来たが如く、Winkの偽物の様で改めて時の隔たりに嘆感を余儀無くされた。
g785.jpg  勿論、24年前の主役達の多くは今日再び眼前に鎮座しているから、その容貌或いは体型の相違にも目を見張る局面もまた少なくなかったのだが。
 本日の会場は明治生命館一角のプロジェクターのある店舗、マ元帥の陣取った第一生命館ほどの話題性は無くとも歴史的建造物を保存しながらの再開発が行われている。往時、事務所を構えた恵比寿近辺が定番だったOB会の丸ノ内挙行もまた時代の変遷を物語る要素だったろう。

 八月最終週から二学期の始まる公立校も存在するため、目出度く満了に伴い夜は祐旭の夏季講習の打ち上げ。「理科が楽しかった」とのコメントは得意分野を物語っているが、愉しむ余裕があるだけまだ救われる。
 しかしながら来週は替わりに阿佐ヶ谷の個人授業に勤しむ勤勉さ。受験地獄の日々は果てない。

4月27日(土) それではお別れしましょう

g720.jpg  6時半の新幹線で新大阪へと旅立つ。JRと阪急を経由して降り立ったのは宝塚南口駅、閑静な住宅街の風情である。 半年前に気儘な、半ばひとり旅に及んだのは脳腫瘍の再発した友人の見舞いが本旨だった。その際、今生の別れになるのではとの予感は既に濃厚ではあったが、師走の葬儀に駆け付けること叶わず、今日改めて墓参に及んだのである。
 タクシーに分乗して段々畑ならぬ、宝塚をも遠く見下ろす高台に佇む段々墓地に赴けば、阪急沿線のこの地が急速に宅地化した歴史の一旦が伺えよう。
 和尚さまの読経が見晴らし抜群の開放的な墓地に響く光景は盆暮れの年中行事と大差無いが、大きく異なるのは骨袋を開いて参加者各々が実地見聞宜しくお骨を確認する行程であり、納骨の儀式に立ち会わせて戴いた事実とともに身が引き締まる。本来は家族のみ集う行事に、学生時代日々をともにした関西方面の大学出身面子はいざ知らず、自らにもお声掛け戴いたのは曲がりなりにも卒業後、インカレ・サークルの大学を超えた同世代の横の繋がりを自称事務局として担ってきた、その御褒美とも言えようか。
g721.jpg  大正15年竣工の由緒正しき宝塚ホテルにて中華に舌鼓を打ち公式行事を終えると、大阪駅に戻り旧梅田貨物駅再開発により昨年誕生したグランドフロント大阪の屋上展望を覗いた後、旧交を温めつつオープンカフェにてまだ明るい内から更に杯を傾ける。
 故人の想い出を語り、そして我々ももう若くはないと自覚しつつ。

 衆院鹿児島2区の補選と沖縄市長選は揃って与党の勝利で幕を閉じた。自民前職の不祥事にも拘わらず後継が快勝した前者は、戦後長らく唯一の小選挙区だった奄美群島の特殊性を割り引いてなお保守王国たる地域柄の為せる業かも知れないが、基地問題でなお揺れる沖縄まで逆転に至ったのは安倍政権の堅実振り、裏を返せば野党の不甲斐なさの傍証とも言えようか。

2月8日(土) 雪の紋所

g587.jpg  水素から一夜明け、正しくは連日の明けきらぬ朝方に、これも五年前に倣う謂われはないものの、球場巡礼の旅はヤフオクドームを訪れる。
 もう20年近く前に経団連の九州・山口地方懇談会に随行した際には、鼻息荒かりし時分の副会長会社ダイエーの誇る、隣接するシーホークホテルに宿泊した記憶もあるが、改めて球場の外観を拝めば新設された王貞治ミュージアムの看板を除けばまさに現代のコロシアム、恐ろしい程に殺風景であった。
g586.jpg 早々に空港にとって返して機上の人となる。雪が危ぶまれた羽田だが幸い午前便は無事着陸し、板付に舞い戻る羽目には陥らなかった。

 雪の被害を免れた筈だったが、その足で霞ヶ関ビルへと急行しなければならないのだから難儀である。当然休日の霞ヶ関には人靴による轍すら見当たらぬ程で、旅仕度の荷物を抱えた身の上には徒歩すら危険を伴いかねない。
 そろりそろりと辿り着く先は旧華族会館、元より平民には縁の薄い世界だが本日は主催者が世が世なら天下の副将軍であるから八兵衛気分で昼食に預かる気楽なモードだったが、存外に説明が長く降り積もる雪に気が気で無くなっていく。
g585.jpg  午後の講演は予定された都知事が既に過去の人となり、替わって世が世なら更に上位の将軍様が江戸文化について語る光景に、互いに同姓であられるだけに地名を以て呼び合う、嘗ての大家族時代にはわが国至る所で見受けられたにも拘わらずそれとは異なる面映いエスタブリッシュメント性を感じ、些か浮世離れはしていようとも興味深かったが、後ろ髪を引かれながら会場を後にした。
 生印籠を拝察した水戸・徳川ミュージアムの震災による窮状はひと事では済まされず、TVシリーズも終焉した今、責めて寄付金の個人登録はと佇まいを正す雪路であった。

12月2日(月) さよならの向こう側

g510.jpg 丁度二ヶ月程前、出張に託つけて大阪ひとり旅と洒落込んだのは、都市変遷評論家としての消え行く交通科学博物館探訪が本旨ではなく、友人の見舞いがその主題であった。
 大学時代のサークルは所謂インカレだったが、関西を本拠とする氏とはそれ程昵懇の間柄だった訳ではない。それでも応時両親が海外駐在していた為、一軒屋にひとり住まいだった氏の邸宅は同僚の溜まり場と化しており、私がただ一度宿泊に及んだのもまだ学生時分だったか、或いは卒業後だったかも記憶が薄れつつあるが、寧ろ同世代OBの取りまとめ役として社会人となってから交遊が深まったと言ってよい。
 一極集中の煽りとも看做せようが、大学まで関西オリジンだった多くのメンバーも仕事は東京ベースであり、彼等旧関西勢の会合にかく事態に限って俄かに愛知県に所縁のある者を装う私にお声掛け戴いていたのも、リーダーたるポジションとは位相を別にしても常に欠くべからざる人物だった氏との縁になっていたろう。
 事実卒業十周年を記念した催しに際しても氏はオプションのゴルフも含めて自身の出席のみならず関西勢への集客にも精力的だったが、それから程無く脳腫瘍という難病に侵されてなお二十周年の集まりにも姿を現して呉れたのはつい昨年のことである。愈々危機的状況と聞かされ、物理的にもまた交遊の密度からしても幾分の距離感ある私が見舞いに赴くべきかは判断に迷うところだったが、寧ろけじめとして残る者の気を楽にして呉れたと言うのが正直な述懐だったろう。
 そして氏は今日、力尽きた。発病から約十年、企業人として生き続けられたのは結果から見れば奇跡に近かったらしい。

 阪神・淡路大震災後の黄金週間に、六甲の山荘で行われた氏の送別会に闖入したことがある。既に本人は室蘭へと旅立っており留まることを知らぬ酒量と吐瀉物の中、主なき宴が繰り広げられていたのもまた氏の愛すべきキャラクター故であったろう。山を降りてから地震で全快しながら不幸中の幸いにして不在の為人身に被害は及ばなかった、嘗て皆の溜まり場であった邸宅跡地を訊ね、帰路は行き掛けの駄賃宜しく住宅展示場と化した大阪球場のグラウンドに足を踏み入れたことを覚えている。
 邸宅は再び建て直されたと聞くが、大阪球場も既に亡い。
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