コラム堀内一三

~粥川善洋の四方山コラム~

9月2日(日) 百獣の王を凌駕する  -スポーツ - ゴルフ-

i71.jpg  ラス前第二打残り190ヤード、当然乗る筈も無いからと力が抜けたのが奏功したか、3番ウッドを一旋すれば見事バーディ・チャンスに付けるスーパー・ショットが訪れる。
 だからゴルフは辞められない、のワンシーンだが、現実にはこのホールも3パットしてパーすら逃し、一日を通してドライバー、ウッド、ショート(しかバッグに入れていない)アイアン、アプローチ、パットの何れもが、先述の一打を除いて須く震わない苦渋のラウンドであった。結果百十の王を遥かに超え、久々のスルーで上がって漸く、ライオンの如くに生ではないものの肉と日本酒を煽る。

 長らく学生時代のサークルの同世代の幹事役を自認してきたが、コンプライアンス天国の昨今、我々の時分でも些か硬い響きだった「学生団体」から更にNPOたる胡乱な存在に朽ち果てたそれに愛想を尽かした訳ではないものの、創立55周年なる仰々しい集まりには伺えなかった。
 それは勿論、芝刈りとバッティングしたからではあるものの、企業人であろうと独立した経営者に近い存在であろうと、嘗ての同僚達の身を置く世界と些か日常が隔たって仕舞ったからであろうか。
 結局、近隣世代のその後を追ったHPも最後の更新は卒業20周年を大江戸温泉物語に集った五年前、既に往時の参加者から鬼籍に入る者二名を数えており、今年は四半世紀の会を設営すべきところだが、屋形船案、ゴルフバー案とアイディアだけは浮かぶものの、初めの一歩が出ない。

8月31日(木) いつも同じ時を  -音楽 - J−POP-

i70.jpg  七月に発表された一十三十一氏のニューアルバム『Ecstasy』はドリアン氏が全曲を手掛けているが、それは2012年の一十三十一氏の実質的な再デビューとも言える『Dive』のプロデュース以来、徐々に比重を落としつつもこれまでの全てのアルバムに複数楽曲を提供してきたクニモンド滝口氏の存在が遂に消え失せたことを意味している。
 俗にシティポップとひと括りにされるジャンルの中で、フォークよりは"ポップ"の要素の代名詞とも言うべき、「流線形」以来のクニモンド氏の不在は、メロディの美しさから休養以前の一十三十一氏の、寧ろ粘り付く様な声を素材に、ボーカルもまた一要素として楽曲全体を構成する方向に、率直に言えば主旋律そのものは些か平板に回帰させたとも言えよう。
 実際、裏声の様にも響く地声と本物の裏声を織り交ぜながらも一音一音が正確な上に倍音が豊かなのか、類稀な声質の一方で、音域は狭く畝々とした起伏豊かでないメロディとの親和性が高い、要は平板でも声で聴かせて仕舞うとはいえ、新作には若干の物足り無さは否めなかったのである。
 「Dive」で幕開けした本日の公演も当然、新作主体なので期待と不安が入り交じって迎えたのだが、いざ蓋を開けてみると打ち込みベースかと思いきやシークエンス以外は純然たるバンド仕様で再現とは、難解なコードが連なる上に更に複雑なギターリフが重なり、ベースは弦と鍵盤の両刀使いとは実に恐れ入った。更にはドリアン氏に加え、同じくこれまで多数作曲兼トラックメーカーを務めているカシーフ氏と、恐らくこの世界では豪華ゲストも登場し、想像以上に魅せる"ライヴ"であった。
 こうして観るとドリアン氏やカシーフ氏の方が、確かにコード感の希薄さはシティポップらしさからは遠退くものの、素材としての一十三十一氏を活かすべく職人に徹しており、自ら編み出した美しいメロディを当て嵌めているという意味では、却ってクニモンド氏の方が過剰関与だったのでないかとの疑問すら湧いてくる。元より後にクニモンド氏が手掛けたUKOやナツ・サマーといった顔触れの楽曲が、多分に情緒的な表現ではあるが一十三十一氏のそれよりも煌びやかさに欠ける感が否めないのは、製作者の唄い手への愛情の差が見受けられる気もするのだが。
 ただ詰まるところ非常に満足感に包まれたのは、一曲一曲が短く約一時間強というコンパクトなステージ故に飽きさせないという構成の妙もいざ知らず、恰もイベントに参画して間近のアイドルに見とれるフアンの如く感覚に陥ったからではないか。
i69.jpg  そもそも東京ミッドタウンはガーデンテラス内という小規模かつ小洒落たコンサート会場からして初体験であり、19時開演にも拘わらず一時間半前の開場と同時に訪れて暇を持て余したものの、替わりにほぼ中央最前列を確保して極めて間近にご尊顔を拝し得たのである。
 恐らくその容姿は声ほどに元の素材は類希なる訳では無かろうが、楽曲ともども洗練されたのか、痩せて色気を増したのか、或いはそもそも所謂"下膨れ"が私の嗜好性に共鳴したか、見れば見る程美しいのである。
 翻ればレストラン兼であり、食事を採りながら音楽も愉しむ構成の為、テーブルから90度腰を捻って頭付きにならざるを得ず大いに腰に痛みを生じだのだが、趣旨からすればカップルでの参加が多数見受けられて然るべきところ、私同様に男性ひとりの所帯だらけだったのは、80年代歌謡曲に範を求め得るシティポップの主たるターゲットが五十内外の層であり、彼等が熱を上げる対象として一十三十一氏の様な存在は、贔屓筋たり得るのに丁度良い妙齢ということだろうか。要は単に齢を重ねて、若い歌手には楽曲にも当人にも関心が薄れ、熱を上げる対象もまた高年齢化したという帰結か。
 アンコールを挟んでのオーラスはアルバム『Dive』からドリアン氏作の「恋は思いのまま」。最初と最後が五年前の作品であるのは、未だにこれを超える作品を産み出し得ていない証佐でもあろうが、過去のライヴ映像を見る限り会場全般にコケティッシュな振りが伝播していたところ、如何せん立ち上がるのも憚られ、座したまま手だけ振っても盆踊りチックである。勿論、バンド形態でなくラップトップ主体のクラブ仕様の公演もあるのだろうが、かく一面だけ取れば矢張り支持層のよく言えば成熟、その実老練化は確実に寄与しており、ステージの短さも当を得ている。
 とはいえ演者には引き続き若作りでいて戴きたい。

8月29日(火) あなた育てます  -スポーツ - 広島東洋カープ-

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 確かに球場効果による安定収入の拡大は大きく寄与していようが、広島カープにとって所謂逆指名制度が廃止されたのは追い風になったろう。折しも元スカウト部長・宮本洋二郎氏の評伝が発表されたが、かの木庭教氏を筆頭に人材発掘に長く携わる、著名なスカウトを数多く排出してきたのがストレートに強味に直結しよう。
 取り分け木庭氏やヤクルトの片岡宏雄氏、或いは遡って太平洋の球団代表まで昇り詰めた青木一三氏、阪神の佐川和行氏ら、端から専属乃至は選手としての期間は乏しい、嘗ての"名物スカウト"の面々が、時には恫喝も辞さず権謀術数の限りを尽くすタイプであったのに対し、宮川孝雄、渡辺秀武、宮本洋二郎、苑田聡彦といった長年の選手生活を経てなおスカウト職を全うしたカープ歴代の顔触れは、寧ろ村夫子然とした地道な佇まいを醸し出しているという意味で、逆に近代的である。
 実際、本日も鈴木外野手を故障で欠いてなお、好投のマイコラス投手を伏兵、西川内野手のひと振りで逆転勝ちとは、幹部候補生以外は年齢を重ねれば流動資産へと昇華させる経営戦略故より顕著に映るとはいえ、若手の台頭が際立っていることは否定し得ないだろう。元より二年連続優勝を為し遂げた時、80年代後半以降の長期低落期の様に、地元の熱を覚まさない為には新たな戦術が必要とされるのかも知れないが。

i8.jpg  新進党初の代表選は1000円を払えば誰でも一票を投ずることが出来る、勿論有権者層自体の恣意性には多分に疑義を残すとしても、民進党の現行サポーター制より遥かに、政党の代表という公職でないポストの決定過程を、お祭り騒ぎ化して宣材に活用するという点で斬新であったろう。
 面白がって友人と二人して二人の候補者各々に投ずるという、勝敗に全く影響の無い関与を施して見事にその戦術に乗せられた記憶があるが、結果は小沢一郎氏が大勝したのは周知の事実であろう。敗れた羽田孜氏はやがて小沢氏と袂を別ち、流浪を経て新民主党の初代幹事長には就任したものの、"早過ぎた元総理のその後"を過ごすこととなった。
 歴史にifを想定しても詮無いが、もし細川退陣後、後継に儀せられた渡辺美知雄氏が多数離党者を引き連れて非自民陣営に参画し、羽田カードを温存出来ていれば、或いは少数内閣として内閣不信任案を迎えた際に、敢えて中選挙区制下のままでも強引に解散に踏み切っていれば、異なった未来が生じていたのかも知れない。美しく言えば、羽田氏はミスター政治改革の異名とともに、小選挙区制と政権交替という政治改革に殉じたということになろうか。
 政権交代の首班指名において既に病篤い羽田氏を小沢氏が肩を抱えてともに壇上に登った姿は、ひとつの時代の証しとなるシーンであったろう。御冥福をお祈りしたい。

8月27日(日) 見る阿呆  -スポーツ - ゴルフ-

i62.jpg  そもそもヘッド・スピードが無く五番ウッド以降は敢えてレディースに救いを求めている私には、父の遺品たるゼクシオ・プレミアムは、高齢者向けだけあってお値段も張る分、撓りの激しさがマッチしたのだろう、ひと月振りのラウンドにも拘わらず、寧ろ従来よりドライバーは飛んでいるではないか。
 おかげで前半は49、しかもアプローチ、取り分け転がしの距離感が冴えているとは珍しい。
i63.jpg  ところがいい気になってロブよりもランニングに専念したところ後半に入りトップ続出、それでも耐えるゴルフを続けたものの、ラスト2ホールで崩れて二桁は叶わなかった。止まる高麗グリーン、にも拘わらず上からだと存外に速くて悩まされたが、高麗の際は距離が短く、スコアが期待出来るだけに悔やまれる。

i64jpg  何とか通行止めになる前に馬橋通りに滑り込んだが、今年は場所取りも断念して通りすがりに遠目から眺めるのみの阿波踊りである。
 とはいえ街全体が祭り仕様のため、迂闊に飯にも有り付けない。已む無く餃子の満州としたが、考えてみれば仲々のネーミングである。「支那竹」ですらメンマと改められているのに、"旧中国東北部"とも改名を強いられず、埼玉の企業の様だがこのまま貫いて戴きたいところ。

8月26日(土) 品川倶楽部  -趣味・実用 - 写真-

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 楽器演奏、野球・相撲評論、都市遺稿の探訪、将棋と趣味と呼べるものは多かれど、写真は後発になる。
 確かに銀塩時代から事あらば撮影に及んでいたが、寧ろ記録性重視であり、写真としての美を求め出したのは、デジタル化により出来映えを即座に確認出来る様になり、数打ちゃ当たる戦法が成立したのも元より、子供達という父の嗜好に協力的な被写体を得たのが多分に作用していよう。
 ただ一眼レンズコンパクトと買い漁っている割には技術的には疎いままで、カメラ本体の知識が豊富とは到底言い難い。従って量販店を嘗めることはあっても、わざわざショールームにまで足を運んだのは、休日に品川という珍しい状況が生まれたからである。
 愛知県の企業なので新幹線ばかりかリニアも見込んだのだろう、関連各社の拠点が少なくないので、実は今週水曜にも品川で飲んでいたのだが、灯台もと暗しとは些か平板な喩えとはいえ、キャノン・ニコンの両社のそれが埋立地に築かれた人口路盤の公園擬きを挟んで相対しているとは知らなかった。
i61.jpg  本社を立地した後者に前者が呼応したのかも知れないが、嘗てニコンの、今はキャノンの一眼レフを旅先に持ち歩く身の上に取っては好都合とも言えよう。今更比較してももう乗り換えは試みないだろうが。

 さて本題は大学時代のサークルの同窓会、毎年別件と重なるが今年はスタートが早く梯子が成立した。
 線路より東側は倉庫街から巨大なビジネス街に変貌した地域だから土日は思い切りひっそりしており、ニコンはマニアらしき顔触れが数名、子供が撮影に興ずるべく幾分のエンターテイメント性を持たせているキャノンですら閑古鳥に近かったが、逆に言えば飲食店は交渉すれば比較的安価に貸し切りが可能とは、幹事の鋭い視点の勝利であったか。

8月18日(金) 都心を歩く  -地域情報 - 東京23区-

 朝からスムースに胃カメラを味わい、意外にも潰瘍は治癒しつつあるとは湯沢では運転もあり必然的に酒絶ちに近かったのが短期的に奏功したのかも知れないが、逆流性食道炎も薬を処方されただけで何と無く痛みが和らいでおり、病は気からであろうか。

i54.jpg  お馴染みのルポールで昼食会だったので雨続きで猛暑もひと休みかと帰路は散歩に興じてみた。20号線を跨いで日テレ通りを進むと市ヶ谷駅に出る。書店で小休止を挟み、私学会館とギリシア神話の組み合わせが不可解なアルカディア市ヶ谷を超えると、嘗て派閥宜しく第四木曜開催の「四木会」なる勉強会を行っていたビルを横切る。ノンジャンル各人お題持ち寄りのアバウトな運営だった為、一年も持たない企画倒れに終わったが、雲散霧消する時分になって改めて「何故よつぎかいだったのか」と尋ねられ、言葉を通ずるのは難しいと痛感した記憶がある。
i55.jpg  永田町関係者にとっては地元から支援者の到来する8月15日はお盆休みを分断する大きな関門であるが、周辺居住者にその責務は無い。とはいえ帝国臣民の末裔として靖国神社を通り過ぎる訳にはいくまい。残念ながら公職は持ち合わせていないので、私人としての参拝である。
 そのまま北向きに突っ切り街宣車と警察の点在する小道に入って白百合学園を遣り過ごせば広大な空間が現れる。「ふじみこどもひろば」は嘗ての衆議院九段宿舎であり、都心の一等地に美しい芝生が拡がる光景は圧巻だが、土日のみ開放のためグラウンドを踏み締めることは叶わない。確かに平日真っ昼間に九段で球技やら駆けっこやらに興じる富裕層も少なかろうが、如何にも勿体無い仕様で老朽化した赤坂宿舎の建替統合など、跡地利用が定まるまでの暫定なのだろう。

i56.jpg  空襲を免れたため旧い日本家屋が点在している地域だが、ひと際大きなそれはフイリピン大使館公邸、旧安田善次郎邸らしい。隣接するのはグランドパレスで、異様な傾斜地への立地を裏から視認して、この辺りが「富士見」を称する高台であることを実感する。
 御本人にとっては災厄以外の何物でも無かったろうが、金大中氏にわが国が理屈抜きの親近感を抱いていたのは、矢張りここを舞台とする拉致事件の記憶故であったろう。元より金大統領時代は韓国経済が昇り坂にあったからこそ、対北のみならずわが国にも太陽政策を採り得たのかも知れないが。
i57.jpg  比公邸との間には飯田橋方面から九段への抜け道があるが、段差解消の為とはいえ何故に隧道にしたのかは都市変遷評論家としては有力なお題である。

 広大な貨物ヤードであった旧飯田町駅の遺稿はJR貨物本社脇を走る線路跡擬きのモニュメントのみかと思いきや遊休地風情の細い土地が点在しており、細長い廃線跡地の使い勝手の難しさを物語っている。
こ れを最後に会社に帰着した。お盆の週はかく弛い感じです。

8月16日(水) Back In Uguisudani  -音楽 - シンセサイザー-

i51.jpg  YMOのコピー遍歴としては94年に「似非YMO」名義で内輪の集まりにて披露したのが実質的な発端となるが、その延長線上に98年01年の二度に亘り自身とメンバーの結婚式の二次会で演奏した「ニセYMO」が第一の山であったろう。
 折しも本家は長いー往時の感覚としては恐らく半永久的なー休息にあり、パロディ・アルバムまで出して仕舞ったYセツ王はじめコピー・バンドの秘かなブームを背景に、MIDI+演者三人だった前回と異なり、完全手弾きをコンセプトに掲げたのが「中国男 l'homme chinois」で、04年から都合五回も公演に臨んでいるのだから第二の山場にしてピークに他ならない。
 ただ詰まるところ手弾きでそれらしく再現するにはどうしても機械的なシークエンスや効果音的なフレーズに人力で対応せざるを得ず、個人的にはコード弾きを基盤とした自由なバッキングは寧ろ望む処であっても、録音を聞き直しては足りない音の埋め草に汲々とする繰り返しが、レパートリー初期から中後期以降に波及させるに連れ増殖し疲れて仕舞ったというのが休眠の本音だろう。
 だが同時にスケッチ・ショウ以降の復活劇に、拙いカヴァーに手づから勤しむよりも現物を聴く、易きに流れた側面もまた否めまい。その結果として数多のコピーバンドもまた極めて本格的な一部を除き停滞期に入ったのも事実である。

i58.jpg  その文脈に則れば、今般鶯谷の東京キネマ倶楽部なる文字通り劇場型の空間で、79年ツアーの再現トリビュート公演が行われたのは、ご本尊が坂本龍一氏の療養から休息に入ったのと期を一にしている様にも見えるが、実際には三年前のYMO楽器展がその発端らしい。
 確かに巨大なMOOG、所謂タンスを前に滔々と語っておられた松武秀樹氏が実演に参加するのは大きなアピール・ポイントに他ならないが、失礼ながらそれだけではYMOの遺産を活用している感が強く映り食指が湧かないところ、 夢の島から葛西に移ったWorld Happinessを二年連続パスしてなおこちらに駆け付けさせたのは、渡辺香津美氏の登壇に他ならない。

 79年ライブを初めて耳にしたのは当然アルバム『Public Pressure』になるが、契約関係から渡辺氏のギターが全て坂本氏のキーボードに代替されているのは有名である。だからこそ却って"テクノポップ"らしさが強調され、後にギターありのボトムライン公演がFMで放送され、更に唐突にアルバム『Fakerholic』が世に出たものの、逆に違和感が残ったのは否めない。
 ただ実際に渡辺氏の演奏が、元よりスペシャル・ゲストであるから本公演以上にそのプレイがフューチャーされている上に、明らかにこれまで親しんだ、今やYouTubeにも多数アップロードされている海賊版を含めた79年公演のそれよりもギターのミックスが大きく繰り広げられると、改めて初期YMOが極めて実演力に富んだフュージョン・バンドであったことが強く想起される。取り分け「在広東少年」や「東風」、「The End of Asia」といった楽曲は本日の方が断然格好良く、然るにこれらは須くYMOと言うより寧ろ坂本・渡辺両氏に依るKYLYNの流れを酌んでいるのだ。
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YMO楽器展(2014/11)の松武氏(右
 往々にしてニューウェイブに傾斜した80年ライブにおける大村憲司氏がYMOギタリストの代名詞として扱われることが多く、実際松武氏も「後ろもYMO(矢野顕子・松武・大村)」と口を滑らせ慌て訂正していたが、動的なパフォーマンスも含め当時のインタビューで細野氏が「リーダーはギタリストか」と再三指摘されたと述懐しているのも、フロントの三人が敢えて無表情な東洋人を装おっているからこそ余計にとはいえ、渡辺氏のライブにおける存在を改めて彷彿とさせるものがあった。
 逆に往時はシーケンサー MC-4を完全手弾き曲の演奏中に一曲毎にテープからロードするという綱渡り的な労苦を強いられていた松武氏は、今ではその手弾き曲の間は正直暇そうで、後年LOGICというプロジェクトで一定の商業的成功を収めたとはいえ、作編曲と独立したマニピュレーターなる存在が、機材の進歩とともに成立しなくなった様を如実に現していた。
 ただ翻れば、とくに79年ライブにおいては概ね一曲置きにはシークエンスや効果音を操作していた訳であり、詰まるところ人力と自動との絶妙なバランスが初期YMO公演のまさにライブ感を醸し出し、年を重ねる毎に後者の比重が増えて極論すればカラオケに音を乗せるが如くに至って、ライブ・バンドとしてのYMOは過去の一頁と化していったのだろう。
i52.jpg  勿論、83年散開ツアー以降、再生からWorld Happinessに至るまで、YMOの公演は優れて旧曲のリアレンジに感嘆するものであって、エンターテイメント性に富みかつお三方のプレイそのものを堪能出来る他に比類の無い公演に他ならないが、ハプニング性を同居させるという意味でのライブという表現が正鵠を得ているとは最早言い難い。換言すればYMOを全て手弾きで演奏するというコンセプト事態、何れ手詰まりに陥るのは避け難く、わが中国男がフュージョン色の強い初期作と同時代のソロ曲から敷衍するに連れ、選択肢が狭まっていったのも宜なるかなだろうか。

 幾らお盆最中とはいえ平日の18時開演にも拘わらずスーツ姿のサラリーマン色が皆無なのは、YMOフリークは既に時間管理から逸脱した自由度の高い世代に占められている証佐かも知れないが、かく言う私も朝方湯沢から自走帰着しての休日仕様、Tシャツ・短パン姿だったが、80年ロス公演の如く絢爛煌びやかな観客席よりも、創世記の79年に寧ろ相応しかったと言うのは自己正当化に過ぎようが、さて明年のYMO結成40周年には何かが起きるのか、或いは起こすべきか。

8月15日(火) 誰か素晴らしい人に  -地域情報 - 新潟県-

i45.jpg  結局フル稼働の三日間、晴れ渡る日は訪れ無かったのだが、恐らく新潟県下においても最大の夏のエンターテイメント場たるオーロラ・プールが徒歩圏内にも拘わらず、屋外がメインでは雨には勝てずと難癖を付けて津南まで遠征するとは我ながら酔狂に違いない。
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 距離的には上越とは比べるべくも無いものの、ひと山超える形になるので近隣とは言い難い。ただ無計画な道中に珍しく美しい情景に目を奪われて寄り道すれば清津渓との看板がある。世界三大ギタリストの敬称にご本人達は全く無自覚だろうし、青函トンネルが三大馬鹿査定とは異論も少なくあるまい。或いは永田町には四天王や五奉行は有名でも三羽烏が稀なのはより多くの有力者を競合させるには三者では少ないのかも知れないが、かく"三大"話しもまた戦前の日本三悪人の如くに時の経過、思想の変遷とともに移ろいゆく概念なのだろう。
 長々と鼎立の事例を掲げたのは、恥ずかしながら湯沢から程近くに日本三大渓谷に掲げられる景勝地が存在するとは露知らずだったからである。実際、中山間地の象徴たる棚田のみならず、小雨の霊感あらたかに丁度遥かに霧が掛かって、祐旭曰く「天空の城ラピュタ」の如くに幻想的な絵柄であり、看板に偽りは無かったと言えようか。

さてお目当てのクアハウス津南はネーミングから連想される近代性とは対局にある街の体育館の体裁だったが、プール以上にジャグジーが妙に充実していて侮れない。地球温暖化は回避しても水泳は常に温暖であって欲しいわが家には矢張り海水浴は不向きなのだろう。
i48.jpg  ひと山超えれば文化圏も変わろう、津南は上越市、十日町市とともに中選挙区時代は四区、現六区である。従って年金があり余っていた時代の遺構たるグリーンピアはじめハコ物に恵まれ、湯沢や刈羽村同様に中魚沼郡では唯一単独の町として生き残った秘訣は、田中先生のご遺考よりはコシヒカリの果実たろうか。途上遥か眺める信濃川も含め、豊富な自然や食文化はアグリツーリズムの対象としては紛れも無い利点だが、資源豊かなを津南町にしてなお地域活性化には資しても地域住民を増やす迄には至るまい。白銀に招かれても、町の暮らしは何故か寂しいかと問われれば現実には賛同し難いのが道理である。

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 クアハウスは流石に湯船はシャビーだったので、更に山を登り竜ヶ窪、とはベムラーでも現れそうな響きである。途上発掘した竜神の館は内湯から潜り戸を抜け、瀟洒な露天が拡がる造りからして実に優雅だったが、当然ながら撮影は叶わない。敢えてジャグジーに拘るのは記録性を求める父の性癖にも由来していよう。二匹目を狙ったラーメンは大蒜の選択が狙い過ぎだったが。
 山道をとって返し、夜は義父母の知人宅でこれも定番の流し素麺に始まりバーベキューの御相伴に預かる。ダイショーの焼肉の垂れが美味だったが改めて調べてみると、別に新潟名物ではない。
 ほのぼのとした花火大会を眺めてルーチンと新機軸の混在した三日間は暮れる。

8月14日(月) 釣るや釣らざるや  -地域情報 - 新潟県-

i42.jpg  帝都は未曾有の二週間を超える雨続きなのだから、想い出した様に小雨の舞う雪国の方がまだしもだったのかも知れない。 幾分出立を遅らせ、今日は定番に復してお馴染み中立のショートコース、軽く練習を終える頃には概ね雨足も上がる。ところが左転向後間もない祐旭が全く当たらず早々にギブアップとは、初ラウンドで200を叩いて二度とクラブは握るまいと怒りに震えた父の経験則からも無理強いは出来まい。哀れこのためにわざわざ新規導入した簡易人力カートは出番なく御蔵入りの憂き目を余儀無くされたのであった。

i43.jpg  気を取り直して午後は久方振りに湯沢フィッシングパークへと赴いた。嘗ては掴み取りに一喜一憂していた子供達も立派に竿を借りて釣りに挑むも、敢えて餌をイクラに止めたからでもあるまいが一向に掛からない。
 思い余って改めて不気味なぶどう虫を調達して開始から一時間余り、漸く祐旭が一匹獲物を吊り上げたものの、虫への不可侵度合いは父同様で餌付けを全面的に兄に委任する公資は、これも父に似て無為に時を重ねる「退屈」を心より忌避して只菅待つ姿勢にうんざり顔で、千載一遇の引きに逃げられたところで俄かに見舞われた豪雨に退散を余儀無くされる。
i44.jpg 濡れ鼠で竿を返さんとしたまさにその瞬間に上流では釣り上げられるべく胃腸を空にしているのであろう、魚達の新規放流が始まり、お盆混雑とはいえ釣果の少なさはタイミング故かとトリックが判明したとろこで最早後の祭り。鱒なのか判然としない貴重な一匹も喰わずに見ず知らずの他人に引き渡して退散した。

 定番の卓球を挟み、夜半にはこれもお馴染みの神社の縁日へと夜道を忍ぶが如くに訪れるも、日にちを間違えた様で深黒の中に橋梁下の墓場を拝むのみ、そのまま忍び足で退散した。
 已む無く再び気を取り直し花火に勤しむ。勿論、わが家近隣にて興じるにも支障は無いものの、矢張り花火は旅先が似つかわしい。毒性の強さで危険視される台湾の蚊には過剰な暑さの数少ない恩恵として殆ど巡り会わなかったが、幸福にも今日もまたキンカンのお世話になる羽目にも陥らず、今ひとつ何事も長持ちしない一日は何とか体面を保ったのであった。

8月13日(日) 海を見ていた午後  -地域情報 - 新潟県-

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 これまで十数年に亘り湯沢へは義父の運転に便乗するか、単身新幹線かだったのは、屡々父のみ短縮日程を余儀無くされる故の対応策である。しかしながら今般、公資の夏期講習並びにその予習復習日程を勘案した結果、久々に一家四人同一行程となった為、初めて自力で赴いた。午後出立のお陰で幸い渋滞も少なく三時間弱、東京都湯沢町と揶揄される所以を改めて体感した。

i38.jpg  足が確保出来たので、祐旭の夏休みの宿題のひとつ、石拾いを大義名分に、明けて早速遠征である。
 そもそも古代律令制以来、駅とは街道沿いに設けられた施設に他ならないと言われても、何と無く道路財源の流用先の如く微妙な印象があったが、今や「道の駅」と言えば新たな観光スポットと化しつつある。ここ上越市の「うみてらす名立」も海水を引き込んだ屋外プールとジャグジー付設の屋内が双璧で、海まで繋がっているのかと錯覚させるのは口上のトリックだとしても、水上を組んず解れつ球体内を巡るウォーターバルーンに取り込まれた子供達の姿は、恰もウルトラ作戦第一号に飛来した赤い球を彷彿とさせつつ、望外のはしゃぎっ振りであった。
 勿論、湯沢までの近さは即ち日本海への遥かなる陸路を意味する。しかも関越道を北上してから西征する為、飛ばしても二時間弱の行程だったが、それも北陸道が長岡まで繋がっている恩恵で、羽越新幹線を待っていたら百年可清であったろう。ただ実は湯沢と上越には国鉄予定線から北陸急行となったほくほく線が走っており、新幹線の順延までは急行はくたか経由が関東地方と北陸を結ぶ最短ルートだったのである。長岡駅13/14番ホームは最早幻のままかも知れないが、ここでも道と鉄路の拮抗の歴史が伺われようか。

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 折角上越に来たのだからと「直虎」には文はすれども恐らくは登場しまい上杉謙信でお馴染み春日山城を訪ねるが、広大な空間の隣にポツンとものがたり館が佇むのみで早々に待避し、平成に入ってから天守風の三重櫓が復元された松平家の高田城に臨む。政治評論家を僭称する身の上には格好の研究対象なのかも知れないが、戦国時代には大河ドラマを凌駕する程度の知識にも乏しいので、歴史的な意義は兎も角、再建であろうと城は建っていて欲しいのである。
 寄り道して遅い昼食となり、道すがら偶々入った「てるちゃん」のとんこつラーメンが矢鱈と子供達に絶賛されたのは、単にお腹と背中がくっ付いた状態だったからだげでは無かろう。

i41.jpg  して漸く本旨たる石を探しに、旅の締め括り総括審議は鵜の浜海水浴場と相成った。いきなり人魚の銅像が我々を迎えて呉れ面食らうが、佐渡から渡ってきた人魚に恋をした男の悲劇の伝説があると聞けば、田中先生の三国峠を吹っ飛ばして佐渡と陸続き、ではないが、どうしても"裏日本"と揶揄された日本海側の悲哀を想起せざるを得ない。
 一体如何なる石かは定かで無いものの、首尾よく数個調達していざ海へと思いきや、取り分け公資が足が砂だらけになるからと海水浴を忌避するとは現代っ子らしい行動である。ただ実は父も似た様な嗜好であり、だからこそ道の駅で疑似海水浴を済ませてきたとも言える。
 人魚館でひとっ風呂浴びて帰路に就く。充実した山の日翌日の"海の日"であった。
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